草津宿本陣とは? わかりやすく解説

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草津宿本陣

名称: 草津宿本陣
ふりがな くさつじゅくほんじん
種別 史跡
種別2:
都道府県 滋賀県
市区町村 草津市草津一丁目
管理団体 草津市(昭3711・6)
指定年月日 1949.07.13(昭和24.07.13)
指定基準 史6
特別指定年月日
追加指定年月日 平成19.02.06
解説文: 旧東海道草津宿本陣であつて、木造瓦葺平家建街道面して建てられている。主要部享保3年膳所藩瓦の浜御殿移築したもので、天保10年の上段向を建替えた。
 向って左に表門玄関上段の間家臣用の部屋等の客用施設を右に居間設けてその間土間をとり、台所口を開いている。その他土蔵、御除門等も存し、表間を店舗改造しているような模様換も行われているが、よく旧規をとどめ、交通史の遺跡として極めて貴重である。
 草津宿は、近世東海道五十三次のうち52番目の宿駅で、五街道なかでも重要な街道位置づけられた東海道中山道合流分岐点に当たり、我が国近世交通の要衝であった天保14年(1843)の記録によれば家数586軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋72軒を数え江戸と京を往来する旅人物資宿場賑わい極めた草津宿本陣としては、江戸時代通じて田中左衛門本陣田中蔵本陣の二つ設けられ公家大名をはじめ貴人休息宿泊施設として機能したこのうち左衛門本陣は、草津川隣接する宿場一町目西側位置し幕末絵図によれば、表間口14間半(約26.1m)、奥行き62間(約111.6m)、屋敷地1,305坪、建坪468坪で、建物街道から向かって左側に休泊者のための座敷棟、右側田中家住居棟敷地奥には厩、土蔵配され周囲西側高塀北側及び東側には堀・配するものであった
 明治3年1870)に宿駅制度廃止され本陣として機能失い郡役所公民館として利用され建物改変が行われたが、江戸時代敷地敷と多く本陣建物良好に残っており、我が国近世の交通を知る上で重要なことから、昭和24年史跡指定された。その後平成元から同8年にかけて座敷棟等の保存修理工事が行われ、一般公開されている。
 今回敷地北側及び東側敷地画する堀部分について追加指定行い保護万全を期そうとするものである

草津宿本陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/08 07:50 UTC 版)

草津宿本陣
所在地 滋賀県草津市草津1丁目2番8号[1]
位置 北緯35度1分4.0秒 東経135度57分37.0秒 / 北緯35.017778度 東経135.960278度 / 35.017778; 135.960278座標: 北緯35度1分4.0秒 東経135度57分37.0秒 / 北緯35.017778度 東経135.960278度 / 35.017778; 135.960278
敷地面積 約4719(1427坪)平方メートル[2]
延床面積 約1547(468坪)平方メートル
文化財 国指定史跡
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草津宿本陣(くさつじゅくほんじん)は、滋賀県草津市にある草津宿本陣である。当主は代々田中七左衛門を名乗り、「田中七左衛門本陣」と呼ばれた。草津宿にもう1軒置かれた本陣も田中家(田中九蔵家)であり、2軒を区別するため、木材商を営んでいた七左衛門本陣は「木屋本陣」とも呼ばれた。敷地や建物の大半が現存している中でも最大級であり、国の史跡に指定されている[3][4]

歴史

  • 1635年(寛永12年)6月 田中七左衛門家が本陣職を拝命。
  • 1699年(元禄12年)7月 浅野内匠頭吉良上野介が9日違いで宿泊。[5]
  • 1718年(享保3年)4月 草津宿大火、七左衛門本陣も類焼する。
  • 1839年(天保10年)4月 佐土原藩藩主・島津忠徹が滞在中に死去。[6]
  • 1861年(文久元年)10月 皇女和宮が14代将軍・徳川家茂へ降嫁する途上に立ち寄る。
  • 1868年(明治元年)9月 明治天皇が昼食時に立ち寄る。
  • 1870年(明治3年)10月 本陣の名目が廃止される。
  • 1947年(昭和22年)7月 地域の公民館として利用される。
  • 1949年(昭和24年)7月 江戸時代の旧態をよく留めているとし、「草津宿本陣」として国史跡に指定される。
  • 1989年(平成元年)11月~1996年(平成8年)3月 保存整備工事を実施。
  • 1996年(平成8年)4月 「草津宿本陣」として一般公開開始。
  • 2014年 隣接する資料展示施設「楽座館」が開館。
  • 2019年 教育委員会の資料調査により、1万4千点の歴史資料が確認される。[7]

エピソード

赤穂事件と草津宿本陣
赤穂浪士の吉良邸討ち入りの3年前、殿中にて刃傷事件が起きる前年の元禄12年(1699年)7月4日に浅野内匠頭一行21人が、7月13日には吉良上野介一行7人が宿泊している。
高家であった吉良上野介はたびたび京都・伊勢などに出向いており、田中七左衛門本陣を利用した記録も数回見られる。最後の宿泊となったのは元禄14年(1701年)2月、京都から江戸へ戻る途上のことであった。[8]
佐土原藩主の急死
天保10年(1839年)4月、佐土原藩藩主・島津忠徹が田中七左衛門本陣滞在中に死去した。跡目相続がまだ決定していなかったため、佐土原藩は存続の危機に瀕することになった。そのため佐土原藩一行は幕府により跡目相続が認められるまで、本陣当主らの協力のもと、表向きは病気の養生中という名目で2ヶ月近く逗留した。[9]
皇女和宮の昼食休憩
文久元年(1861年)10月、皇女和宮は第14代将軍・徳川家茂に降嫁する途上に立ち寄り、昼食をとった。草津宿本陣では記録に残る献立を元に再現した昼食が展示されている。[10]
新選組の宿泊
慶応元年(1865年)5月、土方歳三斎藤一藤堂平助伊東甲子太郎の4人の幹部と28人の隊士が宿泊している。同年、江戸において新規隊士を募集した帰りに立ち寄ったものと思われる。令和元年には、この時に隊士の誰かが忘れたと思われる煙管入れが資料調査によって新しく発見された。[11]

アクセス

公共交通機関

自動車

脚注

  1. ^ 史跡草津宿本陣”. 草津市. 2025年5月8日閲覧。
  2. ^ 草津市教育委員会『史跡草津宿本陣保存管理計画報告書』1985年、1頁。 
  3. ^ 『0から学ぶ草津の歴史宿場町』草津市立草津宿街道交流館、2019年、40頁。 
  4. ^ 『国指定史跡 草津宿本陣』史跡草津宿本陣、2010年、4頁。 
  5. ^ 所蔵品紹介”. 教育委員会事務局 史跡草津宿本陣. 2019年12月8日閲覧。
  6. ^ 大名の死 秘した使命感 草津宿本陣(時の回廊)”. 日本経済新聞. 2019年12月9日閲覧。
  7. ^ 現存最大級の本陣から大量の史料 宿場町の様相把握に期待大きく”. 京都新聞社. 2019年12月9日閲覧。
  8. ^ 『くさつこぼればな史』草津市教育委員会、2002年、26頁。 
  9. ^ 大名の死 秘した使命感 草津宿本陣(時の回廊)”. 日本経済新聞. 2019年12月9日閲覧。
  10. ^ 所蔵品紹介”. 教育委員会事務局 史跡草津宿本陣. 2019年12月8日閲覧。
  11. ^ 新選組のきせる入れ発見=草津宿本陣に忘れ物-滋賀”. 時事通信社. 2019年12月9日閲覧。
  12. ^ 『0から学ぶ草津の歴史宿場町』草津市立草津宿街道交流館、2019年、88頁。 

関連項目

外部リンク



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