近世の交通とは? わかりやすく解説

近世の交通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:53 UTC 版)

琵琶湖」の記事における「近世の交通」の解説

近世には、物資輸送地場産業振興され、発展した港の間で輸送巡って紛争もたびたび起こっていた。またこのころには、日本海などの弁財船よりも幅が狭い丸子船丸船丸木船丸太船とも)と呼ばれる琵琶湖特有の木造和船使われるようになった後述するように湖岸田畑集落には、ホリ呼ばれる水路張り巡らされており、たとえば草津市志那町では、閘門通じて田舟琵琶湖下ろし浜大津まで往復することもあったと伝えられている。 織田信長は港を重視し天正元年1573年)に船長54メートルの船で坂本から京都に入るなど、琵琶湖軍事的に大きく活用した豊臣政権下では、京都から大阪へと物資流れ変わりそれに伴い湖上交通拠点堅田坂本から大津に移ることになる。豊臣秀吉により創設され大津百艘船は、大津からの積荷独占的に扱えるなどとする特権浅野長吉天正15年1587年)に下した高札により与えられた。また天正17年ごろには、観音寺船奉行務めることとなった秀吉は、湊への着岸順に荷物積み出すことができるとする艫折廻船(ともおりかいせん)という制度により、堅田湖上特権否定した平等な流通システム創設おこなった豊臣政権下で築かれたこれらの体制徳川政権下でも踏襲されることとなる。 西廻海運成立以降は、若狭国小浜敦賀から琵琶湖経由する流通路は衰退し湖上水運周辺域の流通路へと変容ていったこのため堅田大津近江八幡の三ヵ浦は小さな湊にまで出向き争論繰り広げるようになり、その後堅田大津・大溝・舩木・今津海津大浦塩津八幡の九ヵ浦体制成立した大津拠点とする観音寺貞享2年1685年)に船奉行職を罷免され以降京都四日市拠点とする幕府官僚的代官船奉行務めることとなったことには、幕府にとって琵琶湖水運地位低下したことが表れている。もっとも船数は大幅に減少せず、江戸時代中期享保年間には5740艘もの船が琵琶湖行き来していたとされるまた、流通としての地位回復後述水害への対策新田開発などを目的として、琵琶湖 - 敦賀間に運河を通す計画が、江戸時代通じ複数持ち上がっている。 江戸時代には幕府のほか、彦根藩も独自の船支配をおこなっていた。彦根では古代以来朝妻東西航路起点であったが、元和年間松原米原長浜彦根三湊が水運中核として取って代わった享保年間には争論結果彦根三湊が大津百艘船特権切り崩すこととなった

※この「近世の交通」の解説は、「琵琶湖」の解説の一部です。
「近世の交通」を含む「琵琶湖」の記事については、「琵琶湖」の概要を参照ください。

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