近世の加波山権現とは? わかりやすく解説

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近世の加波山権現

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 09:05 UTC 版)

加波山三枝祇神社」の記事における「近世の加波山権現」の解説

加波山権現は現在、本宮親宮の当神社中宮の3神社分かれているが、遅くとも近世にはこの形態であった明治初年19世紀後葉)までは本宮は正幢院(しょうとういん)と、親宮円鏡寺えんきょうじ)と称し宮寺一体の真言宗寺院で、加波山西麓長岡村(現・桜川市周辺信仰圏有する常陸国有数修験道霊場であった信仰内容が略共通するにも関わらず一山支配ではなく三山鼎立現象現れたのは、加波山筑波山峰である事から筑波山神社の下でその地位低く、独自の信仰展開するまでに至らなかったためとも見られる近世以降本宮別当正幢院と親宮別当円鏡寺という宮寺一体の形態を採り、正幢院は楽法寺桜川市)の末寺で、檀家持たず祈祷専らとする寺院円鏡寺金剛院(現桜川市真壁町塙世の八柱神社)の末寺で、檀家を持つ滅罪寺院葬儀を行う寺)としてそれぞれ異な形態経営された。 両寺院慶安元年1646年)に幕府から加波山樺山権現領として朱印地100石を認められ、これを50石づつ差配した。但し各50石という少領であったために維持経営のための別の財源確保が必要とされ、古くから加波山修行場とした修験者山伏)をそれぞれの宮に所属させて呪術加持祈祷を行う「山先達やませんだつ)」として組織化し彼等宗教行為媒介として周辺部落に神輿巡幸(現御分霊渡御祭)させたり、寛政18世紀末)頃迄に山中修行霊場を「禅定場(ぜんじょうば)」として整備するとともに登拝を促す組織として禅定講ぜんじょうこう)を結成させたりする等の積極的な布教活動展開し、それが地方的にせよ嵐除や殖産といった広範な信仰獲得する要因となった思われる。 なお、文化・文政年間19世紀前葉)に周辺地域禅定講増加しているが、この時、本宮組織化したのは主に加波山西・南部、親宮北部で、特に檀家持たない本宮神輿巡幸に際して親宮が3基を出御させたのに対して7基を出御する等のより積極的な姿勢見せている。

※この「近世の加波山権現」の解説は、「加波山三枝祇神社」の解説の一部です。
「近世の加波山権現」を含む「加波山三枝祇神社」の記事については、「加波山三枝祇神社」の概要を参照ください。

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