近世の加波山権現
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「加波山三枝祇神社」の記事における「近世の加波山権現」の解説
加波山権現は現在、本宮、親宮の当神社と中宮の3神社に分かれているが、遅くとも近世にはこの形態であった。明治初年(19世紀後葉)までは本宮は正幢院(しょうとういん)と、親宮は円鏡寺(えんきょうじ)と称し、宮寺一体の真言宗寺院で、加波山西麓の長岡村(現・桜川市)周辺に信仰圏を有する常陸国有数の修験道の霊場であった。 信仰内容が略共通するにも関わらず、一山支配ではなく三山鼎立の現象が現れたのは、加波山が筑波山の枝峰である事から筑波山神社の下でその地位も低く、独自の信仰を展開するまでに至らなかったためとも見られる。 近世以降は本宮別当正幢院と親宮別当円鏡寺という宮寺一体の形態を採り、正幢院は楽法寺(桜川市)の末寺で、檀家を持たずに祈祷を専らとする寺院、円鏡寺は金剛院(現桜川市真壁町塙世の八柱神社)の末寺で、檀家を持つ滅罪寺院(葬儀を行う寺)としてそれぞれ異なる形態で経営された。 両寺院は慶安元年(1646年)に幕府から加波山(樺山)権現領として朱印地100石を認められ、これを50石づつ差配した。但し各50石という少領であったために維持経営のための別の財源確保が必要とされ、古くから加波山を修行場とした修験者(山伏)をそれぞれの宮に所属させて呪術や加持祈祷を行う「山先達(やませんだつ)」として組織化し、彼等の宗教行為を媒介として周辺部落に神輿を巡幸(現御分霊渡御祭)させたり、寛政(18世紀末)頃迄に山中の修行霊場を「禅定場(ぜんじょうば)」として整備するとともに登拝を促す組織として禅定講(ぜんじょうこう)を結成させたりする等の積極的な布教活動を展開し、それが地方的にせよ嵐除や殖産といった広範な信仰を獲得する要因となったと思われる。 なお、文化・文政年間(19世紀前葉)に周辺地域に禅定講が増加しているが、この時、本宮が組織化したのは主に加波山の西・南部、親宮は北部で、特に檀家を持たない本宮は神輿巡幸に際して親宮が3基を出御させたのに対して7基を出御する等のより積極的な姿勢を見せている。
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