近世の勝山城と御茶壷道中
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「勝山城 (甲斐国都留郡)」の記事における「近世の勝山城と御茶壷道中」の解説
江戸時代前期には、江戸城において将軍が御用する茶が京都宇治からもたらされる宇治採茶使(御茶壷道中)と呼ばれる行事が存在した。茶壷は江戸を出て往路は東海道を空で運ばれ、宇治に着くと碾茶が詰められた。帰路は中山道・甲州街道を経て江戸城にもたらされ、越夏のため谷村において勝山城の茶壷蔵に保管されていたという。 御茶壺道中については『徳川実紀』に記録が見られるほか、江戸後期に編纂された地誌である『甲斐国志』においても著述され、「秋元三代絵図」や「下谷村明細書」など茶蔵の記された絵図や位置を記した文献資料もみられる。また、甲府徳川家の『甲府日記』には将軍家以外でも甲府徳川家・館林徳川家には採茶使を派遣している記事が見られ、いずれも谷村において茶壷が保管されていたとしている。寛永年間には秋元氏が茶壺蔵を設置したと伝わるが、発掘調査では確認されていない。 江戸時代に勝山城は山城としての性格を失い、『国志』によれば浅野氏時代には山頂の勝山八幡神社が八窪山山頂に移転されたという。江戸時代には両谷村・川棚村により管理され入山は制限され、文政4年には両村から畑開発の願書が出され再開発されたと考えられており、出土遺物においては銭貨や陶磁器が存在し信仰の対象となる祠の存在が想定されている。また、灯明皿が多いことから夜間の入山が行われていた可能性が考えられている。 昭和16年には谷村第一小学校敷地から山頂に東照宮が移転された。
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