近世の入佐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 05:00 UTC 版)
江戸時代には薩摩国日置郡伊集院郷(外城)のうちであり、村高は「郡村高辻帳」及び「天保郷帳」ともに476石余、「由緒再撰帳」においては488石余、「旧高旧領取調帳」では511石余であった。天保年間の「入佐村竿次帳」においては門数は12であったと記されており、江戸時代末期の門としては中園、寺園、神野、松木園、下野、竹之内、畠中、南屋敷、九万田、南、川路、森園の12門があったとされる。上前集落には郷士が居住しており永吉郷境の監視を行っていた。 村内は上の前、大下、下原の3つの字に分かれていた。これらの3集落は閉鎖的で、共同体意識が強かったため、郷中山(入会地)の管理などの慣行や旧来の風習、伝統が第二次世界大戦終戦後まで残っていた。1880年(明治13年)には入佐村において1,200斤余の茶が生産されていたという。1886年(明治19年)には入佐簡易小学校が設置されたが、1892年(明治25年)に直木簡易小学校と合併し現在の鹿児島市立東昌小学校の前身となる東昌尋常小学校が開設された。
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