近世の南瀬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 02:32 UTC 版)
南瀬という地名は江戸時代より見え、薩摩国薩摩郡東郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では904石余、「郡村高辻帳」では904石余、「三州御治世要覧」では1,018石余、「旧高旧領取調帳」では1,181石余であった。 文献上では文中3年(1374年)の薩摩国願文に「とうこうなうせ」と見えるのが初見であるとされる。川内川では南瀬石と呼ばれる盆山石が産出されていた。 江戸時代には城の原台地に曹洞宗で鹿児島城下にあった福昌寺の末寺である香積寺が所在していた。香積寺は藤川村(現在の東郷町藤川)にある菅原神社(別名:藤川天神)の別当寺であったが、のちに衰えて廃寺となっていた。そのため、南瀬村に僧侶である京順によって寛文6年(1666年)に再建された。1878年(明治11年)には南瀬村に小学校が設立された。
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