近世の和田村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 07:15 UTC 版)
江戸時代には谿山郡谷山郷(外城)のうちであり、村高(石高)は「天保郷帳」では538石余、「郡村高辻帳」では591石余、「三州御治世要覧」では569石余、「旧高旧領取調帳」では538石余であった。農村であった和田村には庄屋が置かれ、上福元村の麓に置かれていた地頭仮屋の管轄下となっていた。村域内を山川路(別名:谷山街道)が通っており、和田村の南部海岸には七ツ島と呼ばれる小島が点在していた。 万延元年(1860年)には和田浜で大火が発生し、住居97戸と非住居43戸が焼失し罹災者数が494人にのぼった。
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