近世の塔之原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 01:54 UTC 版)
江戸時代には薩摩国薩摩郡樋脇郷(外城)のうちとなった。当初は清敷郷に属していた。村高は「御秘文雑集」及び「天保郷帳」では3,882石余、「郡村高辻帳」では3,822石余、「三州御治世要覧」では3,177石余、「旧高旧領取調帳」では3,358石余であった。 万治2年(1659年)に清敷郷は二分され、市比野村・塔之原村・倉野村・久住村・中村・楠元村の6村より新たに清敷郷が画され、薩摩藩直轄領となった。「平佐由緒書」によれば万治2年以後、塔之原村の半分は平佐郷の北郷氏持切となっていた。延宝9年(1681年)に清敷郷は樋脇郷に改称した。樋脇郷の地頭仮屋が樋脇川左岸の天神に置かれており、仮屋を中心に麓・野町が形成されていた。 また、寛文3年(1663年)には鹿児島郡鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島市池之上町)にある島津氏菩提寺であった福昌寺の第13代住職嶺室によって塔之原村本庵に玉淵寺が開山した。玉淵寺について薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」では以下のように記述している。 明寶山玉淵寺 塔之原村にあり、本府福昌寺の末にして、曹洞宗なり、本尊釋迦如来、開山嶺室和尚、初め入來裏之名村に在て、慈光寺と云しを、万治年中當邑建置の時、今の地に移す、寛文三年二月、嶺室和尚を以て開山となし、新たに明寶山玉淵寺と號し、瑞岳和尚をして住せしむ、門前に樋脇川流れ、一板長橋を架して往來を通す、巖下に深潭あり、玉淵と云、水色藍を染め、深さ測るべからず、寺號は是に由れり、寺上より望めば、平田渺然として、青嶂高低假山を設けたるか如く、風景佳勝なり、 —三国名勝図会巻之十一
※この「近世の塔之原」の解説は、「樋脇町塔之原」の解説の一部です。
「近世の塔之原」を含む「樋脇町塔之原」の記事については、「樋脇町塔之原」の概要を参照ください。
- 近世の塔之原のページへのリンク