近世の大阪の移り変わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 14:55 UTC 版)
15世紀に大坂の地名を持って呼ばれるようになった上町台地の先端部には、古代から生國魂神社が鎮座していたが、1496年に蓮如が隣接して建立した浄土真宗の大坂道場(石山道場)に、1532年に証如が山科本願寺から移り、大坂本願寺(石山本願寺)となったことから寺内町として発展した。 織田信長と本願寺の間に戦われた石山合戦で1580年に顕如が退去した後の1583年には、大坂本願寺の跡地に豊臣秀吉が大坂城を築き、城下に配下の大名の屋敷や堺などの周辺の町々の町人を集めて、上町台地から大阪平野に広がる大坂の町を築いて再び政治・経済の中心都市とした。このため、安土桃山時代のうちの豊臣政権期を指して「大坂時代」と呼ぶ人もいる。なお、大坂築城の際に生國魂神社は現在地に移転させられている。 豊臣氏が滅んだ大坂夏の陣で大坂は荒廃した。江戸幕府は、味方となる大名が西国には乏しいことから大坂を直轄地(天領)とし、西国に睨みを利かせる要として大坂城を再建し大坂城代を置く一方、海路に難所が多く海運に不向きな江戸よりも、古より恵まれた海運の要衝の地として治めるべく河川の改修や堀の開削を行い、諸藩も蔵屋敷を置いた。蔵屋敷へは水路で年貢米が運ばれたため八百八橋と言われるほど橋と水路の多い町となった。こうして水の都として復興した大坂は日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり、「天下の台所」と呼ばれて繁栄した。こうした経済的な発展に伴って「元禄文化」が大坂を中心に花開いた。また、堂島米会所では世界で最初の先物取引が行われた。 近世大坂の町は江戸幕府の派遣した大坂町奉行支配のもとに北組・南組・天満組の三組に分かれ、総称して大坂三郷と呼ばれた。北組・南組は現在の中央区の本町通を境に分かれ、天満組は北区の大阪天満宮を中心とする一帯である。なお、天満は元和年間頃まで大坂とは別の町とみなされていた。大阪の旧市街地は沽券地として、江戸幕府から町人間で譲渡が許されていた。 古代〜近世にかけ現在の大阪市中心部はその姿を整えた。現在も続く以来の大阪の町は、上町・天満・堂島・中之島・船場・島之内・堀江・下船場などが知られている。
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