近世の宇宿村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 05:27 UTC 版)
江戸時代には薩摩国谿山郡谷山郷(外城)のうちであった。古くは山田郷に属しており、明治4年には谿山郡谷山郷から鹿児島郡鹿児島近在に所属が変更となった。宇宿村を管轄する庄屋は現在の鹿児島市立宇宿小学校の地に置かれていた。 村高は「郡村高辻帳」では1,530石余、「天保郷帳」では1,530石余、「三州御治世要覧」では1,385石余、「旧高旧領取調帳」では755石余であった。 海岸線に沿って谷山筋(山川路)が通り、脇田川の谷に沿って伊作筋(伊作往還)が分岐していた。 文久3年(1863年)に鹿児島湾で勃発したイギリスと薩摩藩の戦闘である薩英戦争ではイギリス人の遺体が脇田に打ち上げられ、人切堀の入口に埋葬された。 明治3年(1870年)に鹿児島近在の村々の調査が実施され、その結果田上村(現在の田上)の生産力が低かったことから西別府村(現在の西別府町)の小牧が田上村に編入されたが、西別府村は田上村以上に貧村であったことから再び小牧は西別府村に編入され、それに代わって宇宿村の広木が田上村に編入された。また、広木の編入について、谷山郷に属していた宇宿村では薩摩藩において禁制となっていた一向宗の取り締まりが谷山郷士によって厳しく行われており、そのことから鹿児島近在への編入を願い出たという伝承がある。明治4年には宇宿村は谿山郡谷山郷から鹿児島郡鹿児島近在に所属が変更となった。明治5年には戸籍が改正され、庄屋が戸長となり、戸長役場が庄屋屋敷跡に置かれた。 1877年(明治10年)に勃発した西南戦争では宇宿は官軍によって火を付けられ、農民たちはシラスの穴に退避し火から逃れた。1884年(明治17年)に宇宿村など鹿児島近在の7町村を管轄する戸長役場が高麗町に設置された。
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