近世の小野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 05:34 UTC 版)
江戸時代には薩摩国鹿児島郡鹿児島近在のうちであった。村高は「天保郷帳」では1,132石余、「郡村高辻帳」では1,132石余、「三州御治世要覧」では1,287石余、「旧高旧領取調帳」では1,403石余であった。戦国時代までは郷士園田氏によって統治されていたが、近世になると薩摩藩の直轄地となった。薩摩藩主の参勤交代時には小野の農民が荷役に出る習わしがあった。 村内から切り出された「小野石」は、甲突川五石橋や仙巌園、尚古集成館などの建材として利用され、鹿児島近在のうちでは最上のものであったとされる。小野村には薩摩街道、郡山街道、永吉村往還が通っていた。
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近世の小野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 09:12 UTC 版)
江戸期には薩摩国阿多郡伊作郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」及び「郡村高辻帳」では720石余、「三州御治世要覧」には484石余、「伊作名勝志再撰帳」には449石余、「旧高旧領取調帳」には444石余と記載されている。
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