近世の山田村
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江戸時代には薩摩国薩摩郡東郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では440石余、「郡村高辻帳」では440石余、「三州御治世要覧」では613石余、「旧高旧領取調帳」では862石余であった。 江戸時代の初期には島津氏家臣であり伊集院郷石谷村(現在の鹿児島市石谷町)領主町田氏の町田久倍へ山田村などの領地が島津義久より与えられている。その後明暦2年(1656年)に日置島津家領であった東郷に編入され、延宝8年(1680年)には薩摩藩直轄領となった。
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近世の山田村
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「山田町 (鹿児島市)」の記事における「近世の山田村」の解説
江戸時代には薩摩国谿山郡谷山郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では1,407石余、「郡村高辻帳」では1,407石余、「三州御治世要覧」では1,545石余、「旧高旧領取調帳」では1,577石余であった。 詳細な年代は不明であるが、江戸時代初期頃は山田郷に属していたとされる。「三国名勝図会」や「薩摩国郷村石附帳」によるとその後伊佐智佐郷と山田郷が合併し、谷山郷となったとされる。村域の中央を伊集院往還が通り、沿線には戸長役場が所在していた。1878年(明治11年)には黒丸小学が設立された。黒丸小学は1887年(明治20年)に辺田学校、白山小学と合併し中山小学校(現在の鹿児島市立中山小学校の前身)が創立された。
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