近世の川田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 06:14 UTC 版)
「川田町 (鹿児島市)」の記事における「近世の川田」の解説
江戸時代には薩摩国日置郡郡山郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では537石余、「三州御治世要覧」によれば499石余、「郡山郷土史」によれば明治初年は518石余、「旧高旧領取調帳」では516石余であった。明治42年に2小社を併せて南方神社と改称された。 明治5年に大区小区制が公布され、これに伴い郡山郷の区域が第21大区となり川田村は第1小区となった。1877年(明治10年)の西南戦争終戦後には川田村に警視分署が設置され、郡山郷6村と小山田村、比志島村、川上村を管轄した。1878年(明治11年)には郡区町村編制法が施行され日置郡の管轄下となり、川田にも戸長役場が設置された。1879年(明治12年)頃には川田小学が設置され、1885年(明治18年)には東俣村にあった東俣小学(鹿児島市立南方小学校の前身)に統合された。
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