近世の戒律とは? わかりやすく解説

近世の戒律

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 21:37 UTC 版)

日本仏教の戒律史」の記事における「近世の戒律」の解説

一般的に近世仏教堕落していたとされることが多い。しかし末木は「江戸時代仏教悪者とすることで、明治仏教再興図ろうとする意図から生まれた理論」としたうえで、江戸時代仏教見直されつつあるとしている。江戸時代僧侶寺檀制度宗門人別帳制度により幕府による戸籍管理役割担い、いわば官僧として保護されていた。その一方で戒律護持求められ不淫戒犯した場合遠島など厳しく処された。 真言宗明忍持戒悩んでいたところ、恵出会い意気投合西大寺の友尊を訪ねて叡尊の自誓受戒を知る。慶長7年1602年)に尊を加えた4人で栂尾高山寺で自誓受戒をする。明忍らは叡尊の自誓受戒元に受戒したが、この頃には西大寺においても持戒なされていないと認識していた。その後明忍らは平等心院(西明寺)を興す。のちに恵弟子慈忍興した野中寺明忍弟子賢俊興した神鳳寺は律の三僧坊呼ばれ西大寺系律学の中心となった明忍にはじまる戒律復興運動1680年頃から1700年代半ば最盛期であった明忍刺激を受け、延暦寺系では慈山妙立小乗戒の兼受を主張するこのため妙立比叡山から追放され没するが、弟子霊空が跡を継いで運動続け元禄6年1693年)に比叡山律院安楽院与えられた。この一派唱える戒律を『安楽律』と呼ぶが、性急な運動対し内の反発強く宝暦8年1758年)に『安楽律』は禁止される。しかし安永元年1772年)に天台宗トップ変わったことで禁止解かれ慧澄多く弟子育てた真言律宗浄厳は、将軍綱吉の命により湯島に律道場霊雲寺を開く。浄厳は『四分律ではなく義浄の『根本説一切有部律』を採用して真言律』を提唱する浄厳門弟には国学者契沖など一般信者も多い。 慈雲は、延享2年1745年)に長栄寺入り戒律運動を行う。翌年に別受方式で具足戒授け寛延2年1749年)に根本僧制を定めて正法律』と称した慈雲宗派超えて釈尊崇拝しようとするもので、釈尊時代正法)に帰ろう主張した。そのため僧侶に対しては、経典書かれる戒律厳格に守ろう説き、その一方で俗人には戒律道徳一致説いて十善戒授けた十善戒明治至り諸宗派の戒律復興運動影響与えたその他にも、浄土宗祐天、忍澂、霊潭らが念仏と戒の一致説いた浄土律』や、日蓮宗元政瑞光寺説いた法華律』がある。浄土宗では上記以外にも関通普寂徳本らが活動した。また親鸞以来非僧非俗掲げ浄土真宗においても、他宗廃仏論者からの非難浴びて西吟真淳らが自戒論を説くうになる

※この「近世の戒律」の解説は、「日本仏教の戒律史」の解説の一部です。
「近世の戒律」を含む「日本仏教の戒律史」の記事については、「日本仏教の戒律史」の概要を参照ください。

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