近世の戒律
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一般的に近世の仏教は堕落していたとされることが多い。しかし末木は「江戸時代の仏教を悪者とすることで、明治に仏教の再興を図ろうとする意図から生まれた理論」としたうえで、江戸時代の仏教が見直されつつあるとしている。江戸時代の僧侶は寺檀制度・宗門人別帳制度により幕府による戸籍管理の役割を担い、いわば官僧として保護されていた。その一方で戒律護持を求められ、不淫戒を犯した場合は遠島など厳しく処された。 真言宗の明忍は持戒に悩んでいたところ、恵雲と出会い意気投合。西大寺の友尊を訪ねて叡尊の自誓受戒を知る。慶長7年(1602年)に雲尊を加えた4人で栂尾高山寺で自誓受戒をする。明忍らは叡尊の自誓受戒を元に受戒したが、この頃には西大寺においても持戒がなされていないと認識していた。その後、明忍らは平等心院(西明寺)を興す。のちに恵雲の弟子慈忍が興した野中寺、明忍の弟子賢俊が興した神鳳寺は律の三僧坊と呼ばれ、西大寺系律学の中心となった。明忍にはじまる戒律復興運動は1680年頃から1700年代半ばが最盛期であった。 明忍に刺激を受け、延暦寺系では慈山妙立が小乗戒の兼受を主張する。このため妙立は比叡山から追放され没するが、弟子の霊空が跡を継いで運動を続け、元禄6年(1693年)に比叡山に律院の安楽院を与えられた。この一派が唱える戒律を『安楽律』と呼ぶが、性急な運動に対し宗内の反発が強く、宝暦8年(1758年)に『安楽律』は禁止される。しかし安永元年(1772年)に天台宗のトップが変わったことで禁止が解かれ、慧澄が多くの弟子を育てた。 真言律宗の浄厳は、将軍綱吉の命により湯島に律道場霊雲寺を開く。浄厳は『四分律』ではなく義浄の『根本説一切有部律』を採用して『真言律』を提唱する。浄厳の門弟には国学者の契沖など一般の信者も多い。 慈雲は、延享2年(1745年)に長栄寺に入り戒律運動を行う。翌年に別受方式で具足戒を授け、寛延2年(1749年)に根本僧制を定めて『正法律』と称した。慈雲は宗派を超えて釈尊を崇拝しようとするもので、釈尊の時代(正法)に帰ろうと主張した。そのため僧侶に対しては、経典に書かれる戒律を厳格に守ろうと説き、その一方で俗人には戒律と道徳の一致を説いて十善戒を授けた。十善戒は明治に至り諸宗派の戒律復興運動に影響を与えた。 その他にも、浄土宗の祐天、忍澂、霊潭らが念仏と戒の一致を説いた『浄土律』や、日蓮宗の元政が瑞光寺で説いた『法華律』がある。浄土宗では上記以外にも関通、普寂、徳本らが活動した。また親鸞以来、非僧非俗を掲げる浄土真宗においても、他宗や廃仏論者からの非難を浴びて、西吟や真淳らが自戒論を説くようになる。
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