近世の有屋田村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:02 UTC 版)
江戸時代には、薩摩国日置郡伊集院郷(外城)のうちであり、島津氏の直轄領となった。村高は「天保郷帳」では335石余、「郡村高辻帳」では335石余、「三州御治世要覧」では302石余、「旧高旧領取調帳」では289石余であった。石高は江戸時代中期には減少傾向にあったが、江戸時代中期から明治時代にかけて微減の傾向がみられ、大きな変化はなかったという。薩摩藩の門割制度における門として「伊集院由緒記」によれば宮田門、北門、吉村門、徳永門の4つが存在していた。 明治時代初期の「鹿児島県地誌」によれば有屋田村の人口は244名であり、うち士族が59名、平民が185名であり、200人規模の小さな村であった。
※この「近世の有屋田村」の解説は、「有屋田町」の解説の一部です。
「近世の有屋田村」を含む「有屋田町」の記事については、「有屋田町」の概要を参照ください。
- 近世の有屋田村のページへのリンク