近世の横山村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 08:44 UTC 版)
江戸時代には大隅国大隅郡桜島郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では273石余、「郡村高辻帳」では273石余、「三州御治世要覧」では225石余、「旧高旧領取調帳」では216石余であった。桜島では嶽村(現在の桜島武町)に次いで石高を有していた。 横山村は桜島郷行政の中心地であり、地頭仮屋が置かれ、その周囲に郷士が居住しており麓が形成されていた。桜島に居住していた446軒の郷士のうち61 パーセントが横山村に居住していた。横山村には浦町が置かれていたとされ、「藩法集 8 薩摩藩上」の御領国中諸浦数のうちに横山村が含まれている。 測量家である伊能忠敬は文政7年(1824年)には小池(現在の桜島小池町)も横山村のうちであったと記録している。「三国名勝図会」にも「小池は横山村の内」と記されている。また横山村の南方に浮かぶ鳥島、沖小島(沖ノ島)も横山村のうちであった。 薩摩藩の地誌である三国名勝図会には沖小島について以下のように記されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}沖小島 湯之村の前にあり、横山に屬す、大きさ烏島の倍す、出水あり、文明七年八月、野尻村火を發せし時、烏島と一時に涌出せしといふ、是安永中、新島の涌出せし類なるべし、或は云文明七年以前、櫻島發火の時涌出せしと、今松樹多し、 —三国名勝図会巻四十三 安永年間に発生した桜島の安永大噴火の際には横山村の村民は鹿児島城下(現在の鹿児島市街)に避難している。嘉永3年(1850年)には沖小島と横山に砲台が建設され、万延元年(1860年)には遠見番所、文久3年(1863年)には城山に砲台が築かれた。同年7月2日に鹿児島湾において薩摩藩とグレートブリテン及びアイルランド連合王国(イギリス)との間で勃発した薩英戦争の際には横山・袴腰に国分郷・囎唹郡郷の兵が配備された。またイギリス艦隊は小池村・横山村の沖に停泊し、郷士らは戦闘配備についた。 1882年(明治15年)には横山城山添に桜洲小学校が創立され、1887年(明治20年)に鹿児島警察署の警察官駐在所が横山に置かれた。また同年4月2日には「 鹿兒島縣下分郡ノ件」(明治20年勅令第7号)により大隅郡が南北に分割され、横山村は北大隅郡の所属となった。
※この「近世の横山村」の解説は、「桜島横山町」の解説の一部です。
「近世の横山村」を含む「桜島横山町」の記事については、「桜島横山町」の概要を参照ください。
- 近世の横山村のページへのリンク