近世の正教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 20:53 UTC 版)
ロシア正教会は国家によって保護され、ロシア帝国内で特権的な立場を得たと一般に考えられているが、反面、教会に対し国家の絶えざる干渉が行われ、時に教会の停滞さらには荒廃を招いた。イヴァン4世は、初期には信仰篤い君主として知られ、モスクワに聖ワシリイ大聖堂を建立したが、治世後半は圧政を行うようになり、暴力化した政策に反対したモスクワモスクワ府主教フィリップ2世を側近が殺害することを黙認した。また17世紀後半には、当時のモスクワ総主教ニーコン(ロシア語版)の奉神礼改革を拒否し、それ以前の祈祷様式を保持する古儀式派と呼ばれる分派も発生した。 さらに、ピョートル1世以降の、国家による教会への介入と統制は、正教会史上類をみない厳しいものとなった。ピョートル1世は西欧化政策を教会にも及ぼし、北欧のプロテスタント国の国教制度にならう統制制度を導入した。1700年にモスクワ総主教アドリアンが没すると、後任をおくことを禁じ、皇帝が直接任命する聖務会院をおいて、そのかわりとした。また1721年には総主教制を廃止し、聖務会院が教会と修道院を管理するとした。この体制はロシア革命が起こる1917年まで続いた。国家の介入は高位聖職者にもおよび、また修道院の閉鎖と財産の国有化が推し進められた。ドイツ出身のエカチェリーナ2世は、プロテスタントから正教に改宗したものの、教会への統制を厳しくした。この統制のもとで、ロシア教会は精神的に荒廃したとしばしばいわれる。この荒廃の時期は18世紀末まで続き、後述する『フィロカリア』の紹介を中心とした静寂主義が修道院を拠点に広まったことで、ロシア正教会の信仰生活は復興したといわれる。 一方、オスマン帝国はキリスト教の信仰の自由を認め、教会財産を尊重したが、教会の活動は布教を中心に制限され、信徒は庇護民としてイスラム教徒より社会的に劣った身分におかれた。また帝国領内での神学教育は禁止された。このため聖職者の養成のために、ローマなど西方に留学して神学を学ぶことが行われた。これは正教会のなかにカトリックの影響を強めることになった。
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