近世の治水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:03 UTC 版)
江戸時代(17世紀初頭 - 19世紀後期)に入ると治水はより大規模化し、また広く普及していった。江戸時代に隆盛した大規模な治水技術は、治水の手法などによって甲州流・美濃流・上方流・関東流(伊奈流)・紀州流などと呼ばれた。江戸時代に顕著に見られる大規模治水は河川の付け替え(瀬替え)である。古くは1605年(慶長10年)の矢作川の瀬替えに始まり、17世紀前期 - 中期にかけては利根川・渡良瀬川の流路を江戸湾方向から東の鬼怒川→銚子方向へと瀬替えする利根川東遷事業という大事業が行われた。1704年(宝永1)には河内平野住民の永年の悲願であった大和川南遷事業が完成した。木曽川など木曽三川の水害に悩まされていた濃尾平野では、18世紀中期幕府の命令により薩摩藩が三川の流路を固定化する築堤治水事業に取り組み、様々な困難の末に完成させた(宝暦治水)。これらの瀬替え・治水事業はいずれも洪水が多発する河川の流路を安定化して水害の危険を軽減するとともに、流域における耕地開発を促進するものであった。 現存する農書、地方書からは、江戸時代における治水の変遷を見ることができる。江戸前期にはまだ連続堤は稀であり、堤防を雁行形に配置する霞堤や、低い堤防を二重に築く二重堤が主流であった。無理に堤外に洪水流を留めると破堤の危険がましかえって被害が増大するが、霞堤や二重堤はある程度の溢流を許す構造になっており、溢水が浅く緩やかに流れ被害を最小限にとどめる工夫がなされている。江戸中期から連続堤が多く見られるようになるが、所々には洪水時に越水できる箇所が設けられ(越水堤)、霞堤や二重堤と同じくゆるやかな溢水が生じるように造られ、溢水しやすい土地では年貢が減免されるなどの措置が採られていた。江戸時代前半に主流だった治水が、関東流と呼ばれた治水法で、ある程度の溢水を認めることを基本とし、堤防は高く造らず、河川幅を広くとり緩やかに蛇行させ、溢水する箇所には遊水池を設ける方策を旨としていた。 江戸時代後半になると、河川を直線化し強固な堤防によって流路を固定し、遊水池は設けず代わりに氾濫原を新田として開発する紀州流の治水が主流となっていった。これにより洪水の発生を抑制することはできたが、河道に土砂が堆積し天井川となりやすくなったため定期的に河道浚渫を行う必要が生じ、その地域の大きな負担となった。
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