近世の犬迫と横井野町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:50 UTC 版)
江戸時代には薩摩国鹿児島郡鹿児島近在のうちであった。犬迫村は鹿児島近在のうちでは遠名に区分されていた。村高は「天保郷帳」では1,919石余、「郡村高辻帳」では1,919石余、「三州御治世要覧」では1,507石余、「旧高旧領取調帳」では1,532石余であった。城下士の一部は近在のうちである犬迫村に居住していた。 また、薩摩街道沿いの横井野町は犬迫村に属しており、鹿児島近在のうちで唯一の野町であった。野町とは幹線道路に沿って点在する商人住区のことである。また、宿場町にもなっていた。横井野町の人口は明和9年(1772年)には104人であったが、文政9年(1827年)には153人と増加傾向にあった。鹿児島駅から東市来駅までの鉄道(現在の鹿児島本線)が開通するまでは横井野町を通る薩摩街道は鹿児島に入る主要道路として栄えており、横井野町には茶屋や商店、焼酎屋などが営業していた。江戸時代末期の茶屋は「ハル茶屋」、「杉ノ木茶屋」・「おもい茶屋」の3軒があった。郷士の住居も所在していた。
※この「近世の犬迫と横井野町」の解説は、「犬迫町」の解説の一部です。
「近世の犬迫と横井野町」を含む「犬迫町」の記事については、「犬迫町」の概要を参照ください。
- 近世の犬迫と横井野町のページへのリンク