近世の洛中洛外と「御土居」とは? わかりやすく解説

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近世の洛中洛外と「御土居」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 01:09 UTC 版)

洛中」の記事における「近世の洛中洛外と「御土居」」の解説

安土桃山時代になり豊臣秀吉政権をとると、上京下京分かっていたそれぞれの構え撤去し代わって「洛中惣構え」として御土居構築した。これには打ち続く戦乱でその境界定かなくなっていた「洛中」の範囲新たに定め狙いもあったとされる慶長年間前田玄以求めに応じて室町幕府吏僚編んだとされる室町殿日記』には、秀吉の「洛中とは」という下問対し細川幽斎が「東は京極迄、西は朱雀迄、北は口、南は九条までを九重の都と号せり。されば内裏代々少しづつ替る申せども、さだめおかるる洛中洛外の境は聊かも違うことなし油小路より東を左近、西を右近と申、右京長安左京洛陽と号之。(中略)この京いつとなく衰え申、(中略ややもすれば修羅の巷となるにつけて一切売人都鄙到来無きによりて自ずから零落すと聞え申候」と答えたとある。この幽斎の返答聞いた秀吉は「さあらば先ず洛中洛外定むべし」と諸大名命じ土堤御土居)を築かせたという。つまり荒れ果てた京都復興するためまずその範囲定めようと御土居建設したことになる。このことにより以後御土居囲まれ内側洛中」という定義が一般化したものと考えられる。ただここで留意すべきは、幽斎は「九重の都」の範囲を「東は京極迄、西は朱雀迄」と誤まりつつも、左京右京含めて「さだめおかるる洛中洛外の境は聊かも違うことなし。」と言いきっていることで、当時一部知識人の間では「平安京の京域内洛中」という認識がなお存在していたことを示している。 1634年江戸幕府将軍徳川家光の上洛を機に洛中全域洛外一部地子免除が認められた。1669年京都町奉行設置機に門跡寺院を除く寺社管轄が町奉行となり、直後始まった鴨川堤防設置工事完成1670年)して洛中洛外区切る自然条件大きく変化することによってそれまで鴨川西河原市街化し、同時に東」と称される鴨川東岸にも市街広がり洛中洛外町続」と呼ばれる都市拡大きっかけになった地誌京町鑑』(宝暦12年1762年上梓)には「今洛中とは、東は縄手(現大和大路)、西は千本、北は鞍馬口、南は九条まで、其余鴨川西南伏見堺迄を洛外と云」とある。一方で京都施政一端担った中井役所寛永年間作製した洛中絵図」には御土居内側のみが描かれており、幕府行政区としての洛中」はあくまで「御土居囲まれ内側」に限られていたとも考えられる町奉行は町の拡大抑制する方針を採ったが、実際に都市拡大先行して町奉行及び新し町割の是非を審査する新地掛の与力がこれを追認する状況幕末まで続いた。この洛外にまで広がった上京下京近代以後京都市基礎となっていくことになる。

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