近世の洛中洛外と「御土居」
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安土桃山時代になり豊臣秀吉が政権をとると、上京と下京を分かっていたそれぞれの構えを撤去し代わって「洛中惣構え」として御土居を構築した。これには打ち続く戦乱でその境界が定かでなくなっていた「洛中」の範囲を新たに定める狙いもあったとされる。慶長年間に前田玄以の求めに応じて旧室町幕府の吏僚が編んだとされる『室町殿日記』には、秀吉の「洛中とは」という下問に対し細川幽斎が「東は京極迄、西は朱雀迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。されば内裏は代々少しづつ替ると申せども、さだめおかるる洛中洛外の境は聊かも違うことなし。油小路より東を左近、西を右近と申、右京は長安、左京は洛陽と号之。(中略)この京いつとなく衰え申、(中略)ややもすれば修羅の巷となるにつけて、一切の売人都鄙の到来無きによりて自ずから零落すと聞え申候」と答えたとある。この幽斎の返答を聞いた秀吉は「さあらば先ず洛中洛外を定むべし」と諸大名に命じ惣土堤(御土居)を築かせたという。つまり荒れ果てた京都を復興するためまずその範囲を定めようと御土居を建設したことになる。このことにより以後「御土居に囲まれた内側が洛中」という定義が一般化したものと考えられる。ただここで留意すべきは、幽斎は「九重の都」の範囲を「東は京極迄、西は朱雀迄」と誤まりつつも、左京と右京と含めて「さだめおかるる洛中洛外の境は聊かも違うことなし。」と言いきっていることで、当時の一部知識人の間では「平安京の京域内が洛中」という認識がなお存在していたことを示している。 1634年の江戸幕府将軍徳川家光の上洛を機に洛中全域と洛外の一部に地子免除が認められた。1669年の京都町奉行の設置を機に、門跡寺院を除く寺社の管轄が町奉行となり、直後に始まった鴨川の堤防設置工事が完成(1670年)して洛中と洛外を区切る自然条件が大きく変化することによってそれまでの鴨川の西河原が市街化し、同時に「鴨東」と称される鴨川東岸にも市街が広がり「洛中洛外町続」と呼ばれる都市の拡大のきっかけになった。地誌『京町鑑』(宝暦12年・1762年上梓)には「今洛中とは、東は縄手(現大和大路)、西は千本、北は鞍馬口、南は九条まで、其余鴨川西南は伏見堺迄を洛外と云」とある。一方で、京都の施政の一端を担った中井役所が寛永年間に作製した「洛中絵図」には御土居の内側のみが描かれており、幕府の行政区としての「洛中」はあくまで「御土居に囲まれた内側」に限られていたとも考えられる。町奉行は町の拡大を抑制する方針を採ったが、実際には都市の拡大が先行して町奉行及び新しい町割の是非を審査する新地掛の与力がこれを追認する状況が幕末まで続いた。この洛外にまで広がった上京と下京が近代以後の京都市の基礎となっていくことになる。
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