近世の江古田村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:09 UTC 版)
徳川家康の関東入国の1年後の1591年(天正19年)の「江古田村御縄打水帳写」には54の人名が記載されており、近世初頭において既にそれなりに発達していた村であったことがわかる。江戸時代から昭和まで残った旧家が百軒余りあり、中には先祖代々10世代以上200~300年続く旧家が約30軒含まれていた。このことは東京都内で珍しいことであった。 村の石高は正保年間で140石、うち田方60石8斗8升4勺、畑方79石1斗1升6勺であった。1702年(元禄15年)11月には147石余りに増え、1771年(明和8年)3月に122石余りに減り、1827年(文政10年)に285石余りに著増して、1832年(天保3年)もほぼ変わらず285石余りであった。 『新編武蔵風土記稿』に記載された江古田村の小名には次のものがあった。丸山(西の方)、本村(東の方)、大原(北の方)、本田屋敷(村の中程)、柏崎屋敷(南の方)、小川屋敷(北の方)、大籠原(西の方)、小籠原(前の続き)。
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