江古田恒岡分
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永禄2年(1559年)に北条氏康が記させた小田原衆所領役帳には「五貫文 江戸 江古田恒岡分」とある。この「江古田」は近世の江古田村に概ね相当すると考えられる。「恒岡分」というのは恒岡家への配当分であることを示す。恒岡家は太田氏の庶流であり、岩槻太田家の譜代家臣であった。 小田原北条家人所領役帳では「太田新六郎知行当所五貫文寄子恒岡越後守配当ノ分」と見える。江古田村は太田新六郎の知行地であった。太田新六郎は岩槻太田家の一族である。北条氏の処遇を不満とし、永禄6年(1563年)に岩槻太田家当主太田資正とともに謀叛を企てたのが露見し、資正居城の岩槻城に逃れた。翌年里見義弘らと連合して下総国府台にて北条氏と戦って大敗した。この国府台合戦で太田新六郎らとともに北条氏に敗れた太田資正は、北条氏に親しい嫡男氏資によって岩槻城から追放される。資正追放を太田氏資に進言したのが恒岡越後守であった。恒岡越後守はかつて小田原北条家人所領役帳に江古田村の配当分を記載されていた。恒岡越後守は永禄10年(1567年)上総国三船台合戦で主君太田氏資とともに討ち死にする。敗走する北条軍の殿(しんがり)として太田氏資以下わずか53騎で敵に立ち向かって全員戦死した。越後守に実子なく恒岡家は断絶するところであった。北条氏政は恒岡越後守の戦死を賞し、その弟で埼玉郡平林寺住職の泰翁禅師が出家のまま相続することを認めた。
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