江古田恒岡分とは? わかりやすく解説

江古田恒岡分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:09 UTC 版)

江古田」の記事における「江古田恒岡分」の解説

永禄2年1559年)に北条氏康が記させた小田原衆所領役帳には「五貫文 江戸 江古田恒岡分」とある。この「江古田」は近世の江古田村概ね相当する考えられる。「恒岡分」というのは恒岡家への配当分であることを示す。恒岡家は太田氏庶流であり、岩槻太田家譜代家臣であった小田原北条家所領役帳では「太田新六郎知行当所五貫寄子恒岡越後守配当ノ分」と見える江古田村太田新六郎知行地であった太田新六郎岩槻太田家一族である。北条氏処遇を不満とし、永禄6年1563年)に岩槻太田家当主太田資正とともに謀叛企てたのが露見し、資正居城岩槻城逃れた翌年里見義弘らと連合して下総国府台にて北条氏戦って大敗した。この国府台合戦太田新六郎とともに北条氏敗れた太田資正は、北条氏親し嫡男氏資によって岩槻城から追放される。資正追放太田氏資進言したのが恒岡越後守であった。恒岡越後守はかつて小田原北条家所領役帳江古田村配当分を記載されていた。恒岡越後守永禄10年1567年上総国三船合戦主君太田氏資とともに討ち死にする敗走する北条軍の殿(しんがり)として太田氏資以下わずか53騎で敵に立ち向かって全員戦死した越後守実子なく恒岡家は断絶するところであった北条氏政は恒岡越後守戦死賞し、その弟で埼玉郡平林寺住職の泰翁禅師出家のまま相続することを認めた

※この「江古田恒岡分」の解説は、「江古田」の解説の一部です。
「江古田恒岡分」を含む「江古田」の記事については、「江古田」の概要を参照ください。

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