江古田村の寺社
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古くは御嶽社が村の鎮守であった。御嶽社は現在の一丁目町会会館の場所(江古田1-33-5)にあった。もとは現在の氷川神社の位置(江古田3-13)にあったのを慶安年間に遷し、旧社の跡地に牛頭天王(後の氷川神社)を勧請したともいう。江古田獅子舞はこの頃に始まったと伝えられる。村の名主家に伝来した『獅子由来並大蔵院起立書』には1649年(慶安2年)に修験僧・宥円から獅子舞を伝授されたと記されている。1696年(元禄9年)に牛頭天王社を氷川社へ改称した。同年11月、東福寺が氷川社の別当(管理者)として氷川社の除地(免税地)願いを代官に提出した。 氷川社の別当をつとめた東福寺の由緒は不明である。鐘の銘には1710年(宝永7年)とあり、法流の祖とされる法運は1722年(享保7年)に死去している。一説に村民次郎右衛門の先祖が開基し、天正年間に起立したというが、詳しいことは伝わっていない。元は村内御嶽山あたりにあったという。以上は幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』によるものだが、昭和の終わりごろまでに次のような由緒ができあがっている(大意)。 中世の初め、江古田の本村(現・一丁目)に鎮座する御嶽神社の氏子二郎左衛門(堀野氏)らが武蔵御嶽神社の社僧・源教上人の教化を受けて、村の御嶽神社の南麓に堂舎を設けた。弘法大師の作と伝わる一尺二寸の不動明王の一本彫り立身像を本尊としてまつった。上人から「金峯山世尊院東福寺」の寺号を贈られた。天正の頃に火災で焼失したので寛永年間に信者たちが協力して現在地に移して再建した。1655年(承応4年)に東福寺の本堂を改築した。そのとき記念で植えたイチョウの樹は後に中野区保護樹林第1号として指定された。 東福寺は将軍鷹狩の御膳所(休憩所)であった。寺山(現・江古田の森公園一帯)は将軍や大名の鷹狩場であった。三代将軍徳川家光は江戸西郊で狩猟する際、江古田の東福寺で休息した。正保年間の鷹狩の折には東福寺で江古田獅子舞を上覧したと伝えられる。1728年(享保13年)2月12日には八代将軍徳川吉宗が鷹狩の際に東福寺を御膳所に指定して休息した。このとき江古田獅子舞を上覧した。当時の江古田村は野菜の栽培地であったので将軍の膳に地場のウドを差し上げた。東福寺では将軍お成りの間を設け将軍の再来に備えた。本堂の西側奥に寺社奉行の命で改修した御成りの間があった。その後、御三卿ら諸侯も東福寺で度々休息した。 『新編武蔵風土記稿』によると、当時の東福寺は村の南の方、上鷺宮村との境にあった(現在地とは全く異なる)。金峰山世尊院と号し、新義真言宗の中野村・宝仙寺の末寺であった。本尊は一尺二寸の不動明王の立像であった。江古田村で除地(免税地)を設定された神社は氷川社、金峰社、神明社、第六天社の4社があり、いずれも東福寺が持っていた。このうち村の鎮守は氷川社であった。かつて村の鎮守であった御嶽社は金峰社と呼ばれていた。 1846年(弘化3年)、村の鎮守の氷川神社に拝殿を建てた。現在の神楽殿である。当時は茅葺の建物で、内部の天井は数十枚の花鳥画の格子天井になっていた。このときの「氷川神社御造営に付奉納取立帳」には85名の村民の苗字姓名が記載されている。江古田の村民の多くは苗字を名乗っていた。それは苗字の公称が武士や名主などにしか許されていなかった当時にあって珍しいことであった。氷川神社は1872年(明治5年)に村社の社格を与えられた。
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