江古田村の寺社とは? わかりやすく解説

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江古田村の寺社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:09 UTC 版)

江古田」の記事における「江古田村の寺社」の解説

古く御嶽社鎮守であった御嶽社現在の一丁目町会会館の場所(江古田1-33-5)にあった。もとは現在の氷川神社位置江古田3-13にあったのを慶安年間に遷し、旧社跡地牛頭天王(後の氷川神社)を勧請したともいう。江古田獅子舞この頃始まった伝えられる名主家に伝来した獅子由来大蔵院起立書』には1649年慶安2年)に修験僧・宥円か獅子舞伝授されたと記されている。1696年元禄9年)に牛頭天王社氷川社改称した同年11月東福寺氷川社別当管理者)として氷川社除地免税地願い代官提出した氷川社別当つとめた東福寺由緒不明である。鐘の銘には1710年宝永7年)とあり、法流の祖とされる法運は1722年享保7年)に死去している。一説村民次郎右衛門先祖開基し、天正年間起立したというが、詳しいことは伝わっていない。元は村内御嶽山あたりにあったという。以上は幕府編纂した新編武蔵風土記稿』によるものだが、昭和の終わりごろまでに次のような由緒できあがっている(大意)。 中世初め江古田本村(現・一丁目)に鎮座する御嶽神社氏子二郎左衛門堀野氏)らが武蔵御嶽神社社僧・源教上人教化受けて御嶽神社南麓堂舎設けた弘法大師の作と伝わる一尺二寸不動明王一本彫り立身像を本尊としてまつった上人から「金峯山世尊院東福寺」の寺号贈られた。天正の頃に火災焼失したので寛永年間信者たちが協力して現在地移して再建した1655年承応4年)に東福寺本堂改築したそのとき記念植えたイチョウは後に中野区保護樹林第1号として指定された。 東福寺将軍鷹狩御膳所休憩所であった寺山(現・江古田の森公園一帯)は将軍大名鷹狩場であった三代将軍徳川家光江戸西郊狩猟する際、江古田東福寺休息した正保年間鷹狩の折には東福寺江古田獅子舞上覧したと伝えられる1728年享保13年2月12日には八代将軍徳川吉宗鷹狩の際に東福寺御膳所指定して休息した。このとき江古田獅子舞上覧した。当時江古田村野菜栽培地であったので将軍の膳に地場ウド差し上げた東福寺では将軍お成りの間を設け将軍再来備えた本堂西側奥に寺社奉行の命で改修した御成りの間があった。その後御三卿諸侯東福寺で度々休息した。 『新編武蔵風土記稿』によると、当時東福寺の南の方、上鷺宮との境にあった現在地とは全く異なる)。金峰山世尊院号し新義真言宗中野村宝仙寺末寺であった本尊一尺二寸不動明王立像であった江古田村除地免税地)を設定され神社氷川社金峰社、神明社第六天社の4社があり、いずれも東福寺持っていた。このうち鎮守氷川社であった。かつて鎮守であった御嶽社金峰社と呼ばれていた。 1846年弘化3年)、鎮守氷川神社拝殿建てた現在の神楽殿である。当時茅葺建物で、内部天井数十花鳥画格子天井になっていた。このときの「氷川神社御造営に付奉納取立帳」には85名の村民苗字姓名記載されている。江古田村民多く苗字名乗っていた。それは苗字公称武士名主などにしか許されていなかった当時にあって珍しいことであった氷川神社1872年明治5年)に村社社格与えられた。

※この「江古田村の寺社」の解説は、「江古田」の解説の一部です。
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