江古田町の改名とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:09 UTC 版)
1958年(昭和33年)、練馬区では全面的な地番変更と町名変更を実施することになり、まず最も必要性の高い江古田町と小竹町から着手する。江古田町と小竹町をそれぞれ一丁目と二丁目に分けること、そして「町の名称は在来のものを重視するけれども混同しやすい地名が他にあった時は、できるだけ他の適当な町名にしたい」ということで、要するに中野区の江古田と紛らわしい江古田町を改称するという趣旨だった。地元折衝に入ったが、長年使われた町名を変えることには異論が多く、折衝は長期にわたった。1959年(昭和34年)1月27日、江古田町の江古田会館に町民を集め、説明会を開き、新町名のアンケートをとった。結果は、変更を希望しない者が51%と過半数を占めた。ところが結局のところ江古田町は町名を変更せざるを得なくなり、旭ヶ丘小学校の名前を採って江古田町を旭丘一丁目、同二丁目に改めることになった。1960年(昭和35年)、都公報で告示された。着手から2年余りの月日がかかっていた。住民は江古田駅の駅名も変更するように西武鉄道と交渉することを要望していたが叶わなかった。 練馬区では1992年(平成4年)度から2018年(平成30年)度まで密集住宅市街地整備促進事業「江古田北部地区」を実施し、2006年(平成18年)度から都市計画決定「江古田駅北口地区」、2018年度から同「江古田北部地区」、2019年(平成31年)度から同「江古田南部地区」を実施している。
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