鷹狩場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 16:50 UTC 版)
江戸時代、将軍の広大な鷹狩場は複数あり、単に「御場(ごじょう)」とも呼ばれ、その一つが「目黒筋」である(旧称:品川)。文化2年(1805年)の「目黒筋御場絵図」によれば「目黒筋御場」の範囲は、現在の大田区西馬込などにあたる馬込、現在の世田谷区ほぼ全域および狛江市にあたる世田谷、麻布、品川、駒場など広い範囲が含まれる。 江戸期に目黒筋鷹狩場の番人の屋敷であった場所は、現在鷹番と呼ばれている。 鷹狩場近辺に徳川幕府の庇護下にあって繁栄した目黒不動があったが、鷹狩から目黒不動参詣のあと近辺の茶屋で休息したといわれており、その話が成立のヒントとなった、とする説を地元が採用している。この茶屋は百姓の彦四郎が開いたとされ、将軍家光が彦四郎の人柄を愛して「爺、爺」と呼びかけたことから爺々が茶屋と称された。この爺々が茶屋は歌川広重の「名所江戸百選」で題材とされている。 爺々が茶屋の場所に以下の2説がある。 現在の渋谷区 林百助(俳号、立路)の随筆『立路随筆』に「祖父が茶屋(じいがちゃや)」は「目黒道玄坂」にあったという記述がある。道玄坂は現在の渋谷道玄坂だが江戸期は目黒道玄坂と呼ばれていた。 現在の目黒区 目黒区内の、目黒駅と恵比寿駅の中間でポーランド大使館とアルジェリア大使館の近くに「茶屋坂」があり、この近辺に爺々が茶屋があったと伝聞され、目黒区教育委員会が「茶屋坂と爺々が茶屋」の告知板を設置している。同地と目黒清掃工場の間に茶屋坂街かど公園がある。 主人公の殿様は赤井御門守、あるいは単に「然る御大名」とだけ描いて名前を付さない演出も多く、実在の殿様とは関係ない。 2代目禽語楼小さんは、「殿様」を出雲国(出雲の国なので「雲州」とも呼ばれる)、松江藩藩主・松平家(松平出羽守)の当主としており、以降これを踏襲する者が多い。何代目であるか特定していないが、寛永年間の噺としていることから松平直政とも推察できる。 林家彦六(稲荷町)は殿様を徳川将軍家とした。殿さまが後で食べるサンマを江戸の日本橋で水揚げされたものとせず、徳川御三家の一つである水戸で水揚げされたものとする大きな話に仕立てている。 殿さまが御殿で後に食したサンマは、上記のように日本橋で買ったものとして暗に高級を示唆するが、最初に目黒(の茶屋)において食べたサンマはどこで手に入れたものか。噺の中にそれを特定する根拠は何もないが、愛好者の間では以下の諸説が語られている。 芝浜の魚市場(ざこば) 芝浜の魚市場は現在の港区にあった。そこでサンマを購入し徒歩で茶屋まで運ばれたという説である。 噺家の古今亭志ん好(柳家三寿、柳家金語、三遊亭金魚、1901 - 1994年)の説によれば、江戸時代には目黒は芋の産地で行商が盛んに行われていたが、「目黒のいも」の大需要地が、東海道品川宿と、大きな魚市場が当時存在していた芝であった。目黒を朝早く出て両地にて芋を売り、その代金で「芝のサンマ」を買って、昼過ぎに歩いて目黒に帰るのが行商人のパターンの一つだったという。 別の魚市場 目黒は現在の天王洲あたりとなる目黒川河口の雑魚場から揚がる新鮮な近海魚が入手可能で、新鮮なサンマが手に入り易い場所だったとする説がある。雑魚場は、目黒川河口に確認できず、芝浜の雑魚場と同じ可能性もあり、位置が明確でなく真偽は不明である。海と無縁な場で食した魚が美味かったとする噺の趣旨とも異なる。 目黒川 これは、最初に将軍の口に入ったのが「新鮮でないサンマ」か「新鮮なサンマ」かという違いでもある。ちなみに築地にはこのころ魚市場は存在していない。 目黒川に遡上したサンマを農民が捕獲したものとも言われる。現在でも目黒川河口はボラ・スズキ・ハゼなどの食用魚が生息する。1980年代前半に東京湾で大量にサンマが発生して江戸川などの河川を遡上したこともあった。 日本橋の魚河岸 輸送が不便だった当時は、現場ですぐ淡塩(うすじお)をあてた。九十九里浜で捕れたサンマは速度の遅い和船で1昼夜かけて日本橋の魚河岸に運んだが、魚味が定まっており手を加えずに食せた。目黒近辺はサトイモの産地で、サトイモと塩漬けサンマを日本橋で物々交換していた、とする説もある。
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