江古田原合戦とその伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:09 UTC 版)
文明9年(1477年)、太田道灌の軍勢が江古田周辺で豊島氏の軍勢と戦ってこれを打ち破った。江古田原合戦である。豊島方の戦死者を葬ったといわれる豊島塚が江古田の台地に点在している。昭和のころまで7か所ほど残っていた。現在はお経塚(江古田2-14)と金塚(江古田4-41)の2か所しか残っていない。 江古田では合戦に関する伝承がある。明治時代に公式に報告された伝承によると、江古田村の領主であるエゴ寺の住職は、甲冑を着て部隊を率いて戦って敗れ、エゴ寺は戦火に罹って焼亡したという。すなわち明治21年(1888年)11月27日付けで、江古田村戸長より村の沿革を取り調べて上申する文書に次のようにある(現代語訳)。 江古田村の創立年月は不詳である(むかし村の中央に「エゴ寺」と称する寺院があって、当村はその寺の領地であったので江古田村というのだそうである。その寺の住職は英邁豪傑であって、「本邦前九年ノ役」で徒弟を率いて某と戦って敗れた。このとき寺の建物は戦火に罹って焼亡した。現在当村に古塚があり、村人は俗に「経塚」と呼ぶ。経文を埋めたからである。また「カチヌキ坂」と称する場所がある。住職が「甲冑衣」を脱ぎ、この坂に接する森の中で焼き捨て、その身は行方しらずになった。これによってこの名があるという。古い昔のことは確証を得がたいけれども、今なお伝承が存するため、ここに記す)。 ここで、エゴ寺が焼亡した「本邦前九年ノ役」とは東北地方を戦場とする前九年の役のことなのか、それとも文明九年の江古田原合戦のことなのか、文明九年を前九年と誤って伝えたのではないか、という問題がある。昭和になって記録された伝説によると、江古寺が焼亡したのは江古田原合戦であった。豊島一族は江古寺附近に陣をとって戦いに敗れ、江古寺は江古田原合戦の最中に火をかけられて焼失したと伝わる。焼けたエゴ寺の経文を埋めたという「経塚」は現在では江古田原合戦の戦死者を葬った塚とされる。住職が甲冑を焼き捨てた森とそれに接する「カチヌキ坂」の場所は不明である。江古寺の伝承地は台地上の江古田の森公園一帯であり、周囲の斜面は森になっている。昭和以前、急坂の左右が険しい崖になっている場所で種々の古物が出土したことがあった。 以上のように、明治時代に記録された古い伝承では江古田村の領主は合戦に負けた側であった。一方、昭和に記録された新しい伝説では江古田村は勝った側に関わっている。すなわち、江古田の氷川神社は太田道灌が江戸城を築いた3年後の寛正元年(1460年)に創建されたという伝説、そして太田道灌は練馬城・石神井城の豊島一族を攻めるにあったって当社に参拝して戦勝を祈願したという伝説である。明治の初めに氷川神社の由緒を調査したところでは、このような伝説は記録されていなかった。
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