豊島塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 06:41 UTC 版)
「江古田・沼袋原の戦い」の記事における「豊島塚」の解説
江古田原古戦場付近には、この合戦の戦死者を葬ったとされる豊島塚(としまづか)が点在していたとされ、一部は現在も名残りを留めている。 1. 四ツ塚(中野区・新井薬師通りと新青梅街道を挟んだ4か所)=現在は店舗および道路。 西北側の塚を崩した際には兜・腐った刀・人骨、南東側の塚からは馬の骨が多数出土したが、何も出土しなかった塚もあったという。 2. 金井塚(中野区江原町1-9〜11付近)=現在は宅地。 かつて直径3メートル、高さ1.5メートルほどの塚であったとされる。 3. 稲荷塚(中野区江原町1-44)=現在は神社社地。 現在、須賀稲荷神社が奉られている付近にあったとされる塚。 4. お経塚(中野区江古田2-14)=現在は公園地。一部現存。 「北方にある東福寺が焼けた際に経文や過去帳の灰を埋めて築いた」とされるが、塚を崩した際には銅筒と人骨が出土。地元では古くから「豊島塚」の一つとされていた塚。 5. 古塚(中野区江古田2-21)=現在はアパート。 かつて25坪ほどの小高い藪地で、地元では「馬捨場」と呼ばれていた。「稲荷塚」の別称もあり、狐が住んでいたため「狐塚」と表記されていたとの話もある。人骨が出土。 6. 丸山塚(中野区沼袋2-40)=現在は公園地。 現在、公園の一角に戦没者供養碑と「豊島二百柱社」が建つ。かつては道を隔てて向かいの地蔵尊付近からも人骨が出土したという。 7. 金塚(中野区江古田4-41-8)=現在は宅地。「金塚」碑のみ現存。 合戦後に村人が戦死者の鎧・兜・刀などを埋めたことからこの名が付いた(一説には「豊島方が武具を捨てて逃げた」ともされる)という、元は直径3メートル、高さ1.5メートルほどの塚。塚を崩した際にはリヤカーで数台分の人骨が出土しており、その遺骨は北方の正覚院に改葬されている。遺骨の量や塚の分布の中心であることから、付近は最大の激戦地であったと考えられる。 8. 蛇塚(中野区丸山1-28)=現在、中野北郵便局前歩道。 元は高さ1.5メートルほどの塚。環状7号線工事の際に消滅。 9. 大塚(中野区野方6-18)=現在は宅地。 別名「首塚」。道灌が戦闘に勝利した後に平右衛門尉らの首実検を行い、そののち首を埋めたところと伝えられる。名前の通り豊島塚では最大のもので、高さは5メートル近くあったという。塚を崩した際には遺骨、折れた刀、「十二月廿二日」銘の板碑2片が出土。 10. 武蔵野稲荷神社古墳(練馬区栄町10)=現在は神社社地。 塚上には社殿が建てられているが、鎮座の年代は不詳。塚はその形から「瓢箪塚」「割塚」(後部が二つに割れているため)、また昔は白狐が十数匹棲んでいたことから「白狐塚」と呼ばれていたという。当時の道筋や他の豊島塚からも離れているため、「豊島塚ではない」とする説もある。
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