豊島家の成り立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 11:35 UTC 版)
「豊島半七 (四代目)」の記事における「豊島家の成り立ち」の解説
天保12年(1841年)、初代豊島半七は尾張国の中島郡一宮村で綿花の仲買人の商売をはじめ、「綿屋半七」の商号を掲げた。農家から糸を購入して問屋に売っていたが、幕末には自身が問屋を構えるまでに成長した。1868年(明治元年)には長男の善七が家督を継いで、二代目豊島半七を名乗った。二代目豊島半七はイギリスから糸を輸入して、販路を日本全国に拡大した。1885年(明治18年)には二代目豊島半七が44歳で急逝し、16歳だった長男の恒太郎が三代目豊島半七となった。明治時代には大規模な糸商として「豊島半七糸店」となり、1918年(大正7年)には株式会社山一商店となっている。三代目豊島半七は1893年(明治26年)に豊島銀行(今日の三菱東京UFJ銀行である東海銀行の前身のひとつ)を設立して頭取を務めたほか、一宮町に初めて電灯をともした一宮電気(中部電力の前身のひとつ)にも関わった。1902年(明治35年)には33歳で一宮町長に就任し、2期1年半の間に上水道の整備に尽力した。1918年には一宮町でも米騒動が起こっているが、その後に一宮町が募った貧民救済金に最高額を寄付したのは三代目豊島半七だった。 初代 豊島半七 : 1841年に商号を掲げる 二代目 豊島半七(豊島善七) : 1868年襲名 三代目 豊島半七(豊島恒太郎) : 1885年襲名 四代目 豊島半七(鈴木孝三) : 1937年襲名 五代目 豊島半七(豊島恒二) : 1962年襲名 六代目 豊島半七(豊島俊明) : 2011年襲名
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