豊島屋の創業
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豊島屋は関東大震災や第二次世界大戦による空襲などの影響で古記録を失っているものの、創業は1596年(慶長元年)までさかのぼることができる。創業の地は、江戸城外堀沿いの鎌倉河岸であった。この鎌倉河岸は江戸城の普請や修理のために城の内堀に造られたもので、相模国から船で運ばれてきた資材を鎌倉の商人たちが取り仕切っていたことからそう呼ばれるようになったと伝わる。 豊島屋の初代十右衛門は、常陸国(現在の茨城県石岡市と伝わる)の出身であった。十右衛門は鎌倉河岸で、酒屋と立ち飲み屋を兼ねた商いを始めた。当時は「下り酒」といわれた灘や伏見の酒を安価に売り、儲けはその空樽を売ることで出していた。 元文年間(1736年—1741年)の初めごろに豊島屋は店を改造して豆腐を作るようになり、店頭ではその豆腐を焼いて田楽を売り出した。自家製の豆腐を使って安価で売り出した田楽に加えて酒も安く提供したため、世間の評判となった。店には近くで働く職人たちは言うに及ばず、武士たちもこぞって店を訪れるほどであった。 文化文政期(1804年-1829年)に書かれた『我衣』という随筆では、当時の店の賑わいを次のように描写している。 片見世に豆腐作り、酒店にて田楽をやく、豆腐一丁を十四に切る、甚だ大きなり。豆腐外へは売らず、手前の田楽斗也。(中略)田楽を大きく安くみせ、酒も多くつぎて安く売ゆへ、当前には荷商人、中間、小者、馬士、駕籠の者、船頭、日傭、乞食の類多くして、門前に売物を下しをきて酒をのむ。 — 『我衣』 豊島屋は樽酒の売値も他の店より安価だったため、大名屋敷からの注文も来るようになった。豊島屋の酒は、旗本や役人の寄合があるときには必ずその場に出されるほどに信用されていた。新川筋の酒問屋が、金回りが悪くなった際に原価割れで酒を豊島屋に持ち込むと、量の多寡を問わずにすべて引き取った。引き取った酒は一両日中に全部飲みつくされていたほどの人気であり、食文化研究家の永山久夫は「酒の「薄利多売・現金安売り」の元祖」と指摘している。 豊島屋は寛政の改革(1787年-1793年)の時期に「江戸商人十傑」(勘定所御用達の10商人)に挙げられるまでになり、徳川幕府の財政金融政策にも協力を求められるようになった。1824年(文政7年)に大坂の中川芳山堂が出版した江戸全域の買物案内書『江戸買物獨案内』では、鎌倉河岸には醤油酢問屋(豊島屋十右衛門)、明樽問屋(豊島屋十右衛門)、下り傘問屋(豊島屋甚兵衛)、畳表問屋(豊島屋甚兵衛)、瀬戸物問屋(豊島屋鉄五郎)、蕨縄問屋(豊島屋鉄五郎)などの豊島屋一族が店を並べていた。そのため、鎌倉河岸ではなく「豊島屋河岸」と言われるほどであった。
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