豊島岡墓地の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 16:09 UTC 版)
元々は隣接する護国寺の所有地であったが、明治政府により召し上げられた場所である。文京区内では小高い標高34メートル近辺にあるため、権現山などと呼ばれていたようである。 江戸時代中期以降、天皇家の墓所は京都の泉涌寺にあり、その他の宮家も京都市内および周辺地区の寺院に墓所が点在している状況であり、いずれも明治以降に事実上の首都となった東京からは遠方にあった。そのため、1873年(明治6年)に明治天皇の第一皇子である稚瑞照彦尊が死産した際には、東京市周辺に墓所及び葬送儀式を行う広い面積を持つ場所が必要となった。 明治政府が複数の候補地の中から同地を選定し、1873年(明治6年)9月22日に「豊島ヶ岡御陵」と命名して使用を開始した。以降、皇族の葬送儀式を執り行う場所として、また墓地として利用されている。現在用いられている「豊島岡墓地」の名称は、1927年(昭和2年)10月29日付の宮内省告示第23号で正式に命名された。
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