江戸時代中期以降
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江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。「奥絵師」と呼ばれる、もっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「表絵師」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「町狩野」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本に則って描かれたものが良しとされた。また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本(絵手本)を学習することが重視された。こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない。 奥絵師は旗本と同格で、将軍への「お目見え」と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。奥絵師の4家とは探幽(狩野孝信の長男)の系統の鍛冶橋家、尚信(孝信の次男)の系統の木挽町家(当初は「竹川町家」)、安信(孝信の三男)の系統の中橋家、それに狩野岑信(みねのぶ、1662 - 1708)の系統の浜町家である(岑信は、狩野尚信の長男である狩野常信の次男)。探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(狩野益信、1625 - 1694)を養子とした。後に探幽が50歳を過ぎて生まれた実子である狩野探信守政(1653 - 1718)が跡を継ぐが、この系統からは同名の7代目狩野探信守道(1785 - 1836)以外に、見るべき画人は出なかった。探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した久隅守景(くすみもりかげ、生没年未詳)が著名である。守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。 表絵師は狩野洞雲益信の系統の駿河台家が筆頭で、当家のみ20人扶持である。山下家は10人扶持で狩野元俊の系統、その他は全て5人扶持で、深川水場町家は山下家分家、狩野梅栄知信の系統、稲荷橋家は山下家門人、狩野春湖元珍の系統、御徒士町家は狩野長信の系統、麻布一本松家は長信三男、狩野休円清信の系統、本所緑町家は長信門人、狩野作大夫長盛の系統、勝田家は勝田竹翁の系統、神田松永町家は狩野宗也種信子孫の系統、芝愛宕下家は松永町家分家、狩野即誉種信の系統、浅草猿屋町代地家は永徳門人、狩野祖西秀信の系統、猿屋町代地家分家は猿屋町分家、狩野洞元邦信の系統、根岸御行之松家は松栄門人、狩野内膳の系統、築地小田原町家は松栄門人、狩野宗心種永の系統、金杉片町家は小田原町分家、狩野梅雲為信の系統であった。 前述のとおり、狩野家の宗家は、探幽の弟・安信の中橋家が継ぐことになった。安信の子の狩野時信(1642 - 1678)は30代で没し、その子の狩野主信(もりのぶ、号は主信しゅしん、1675 - 1724)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない。都会的な画風で人気を博した英一蝶(はなぶさいっちょう、1652 - 1724)は安信の弟子であった。奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、尚信の系統の木挽町家である。この家系からは尚信の嫡男の狩野常信(1636 - 1713)、その子の狩野周信(ちかのぶ、1660 - 1728)と狩野岑信(みねのぶ、1662 - 1708)らが出ている。岑信は将軍・徳川家宣の寵愛を受け、後に「浜町家」として独立し、「奥絵師家」の1つに数えられるようになった。このほか、狩野興以(? - 1636)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟の師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後に紀州徳川家に仕えている。また、狩野内膳も他家の出身ではあるが、狩野松栄に絵を学び、子孫は表絵師の根岸御行松狩野家として幕末まで続いた。 一方、京都に残って活動を続けた「京狩野」という一派もあり、狩野永徳の弟子であった狩野山楽(1559 - 1635)がその中心人物である。山楽は豊臣秀吉の家臣であった近江の木村家の出で、元の名を木村光頼と言った。京都・大覚寺宸殿の障壁画『牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地に色彩豊かで装飾的な画面を展開している。山楽の娘婿で養子の狩野山雪(1589/90 - 1651)は、妙心寺天球院障壁画のほか、屏風絵などの現存作がある。樹木、岩などの独特の形態、徹底した細部描写など、狩野派の絵師の中では異色の個性的な画風をもつ。山雪の残した画論を、子の狩野永納(1631 - 1697)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる『本朝画史』である。 木挽町家からは、江戸時代後期に栄川院典信(えいせんいんみちのぶ、1730 - 1790)、養川院惟信(ようせんいんこれのぶ、1753 - 1808)、伊川院栄信(いせんいんながのぶ、1775 - 1828)、晴川院養信(せいせんいんおさのぶ、1786 - 1846)などが出ている。晴川院養信は、天保9年(1838年)と同15年(1844年)に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として指揮した。障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。晴川院は古画の模写や収集にも尽力した。一般に、江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、晴川院は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある。 晴川院の次代の勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ、1823 - 1880)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった狩野芳崖(下関出身、1828 - 1888)と橋本雅邦(川越出身、1835 - 1908)がいた。芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。
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