江戸時代中期以降とは? わかりやすく解説

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江戸時代中期以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 05:32 UTC 版)

狩野派」の記事における「江戸時代中期以降」の解説

江戸時代狩野派は、狩野家の宗家中心とした血族集団と、全国にいる多数門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型組織形成していた。「奥絵師」と呼ばれる、もっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「表絵師」が約15家あり、その下には公儀寺社の画事ではなく一般町人需要応える「町狩野」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国及んでいた。この時代権力者封建社会安定継続望み江戸城のような公の場描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本則って描かれたものが良しとされた。また、大量障壁画制作をこなすには、弟子一門率いて集団制作する必要があり、集団制作容易にするためにも絵師個人個性よりも粉本絵手本)を学習することが重視された。こうした点から、狩野派絵画は、個性新味乏しいものになっていったことは否めない奥絵師旗本同格で、将軍への「お目見え」と帯刀許されというから、その格式の高さがうかがえる奥絵師の4家とは探幽狩野孝信長男)の系統鍛冶橋家、尚信(孝信の次男)の系統木挽町家(当初は「竹川町家」)、安信(孝信の三男)の系統中橋家、それに狩野岑信(みねのぶ、1662 - 1708)の系統浜町家である(岑信は、狩野尚信長男である狩野常信次男)。探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家後藤立乗の息子の洞狩野益信、1625 - 1694)を養子とした。後に探幽50歳を過ぎて生まれた実子である狩野探信守政(1653 - 1718)が跡を継ぐが、この系統からは同名7代目狩野探信守道(1785 - 1836)以外に、見るべき画人は出なかった。探幽には多く弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した久隅守景くすみもりかげ生没年未詳)が著名である。守景は何らかの事情狩野派破門になり、後には金沢方面制作したが、経歴について不明な点が多い。 表絵師狩野洞雲益信系統駿河台家が筆頭で、当家のみ20扶持である。山下家10扶持狩野元俊系統、その他は全て5人扶持で、深川水場町家山下家分家狩野栄知信の系統稲荷橋家山下家門人狩野春湖元珍の系統御徒町家狩野長信系統麻布一本松家は長信三男狩野休円清信の系統本所緑町家は長信門人狩野大夫長盛の系統勝田家は勝田竹翁系統神田松永町家は狩野宗也種信子孫の系統愛宕下家は松永町分家狩野即誉種信の系統浅草町代地家永徳門人狩野西秀信の系統町代地家分家町分家、狩野洞元邦信の系統根岸御行家は松栄門人狩野内膳系統築地小田原町家は松栄門人狩野宗心種永の系統金杉片町家は小田原町分家狩野梅雲為信の系統であった前述のとおり、狩野家の宗家は、探幽の弟・安信中橋家が継ぐことになった安信の子狩野時信(1642 - 1678)は30代没しその子狩野主信(もりのぶ、号は主信しゅしん、1675 - 1724)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人出ていない。都会的な画風人気博した英一蝶はなぶさいっちょう、1652 - 1724)は安信弟子であった奥絵師4家の中で、幕末まで比較高名な画人輩出したのは、尚信の系統木挽町家である。この家系からは尚信の嫡男狩野常信(1636 - 1713)、その子狩野周信ちかのぶ、1660 - 1728)と狩野岑信(みねのぶ、1662 - 1708)らが出ている。岑信は将軍徳川家宣寵愛を受け、後に「浜町家」として独立し、「奥絵師家」の1つ数えられるようになった。このほか、狩野興以(? - 1636)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後に紀州徳川家仕えている。また、狩野内膳他家出身ではあるが、狩野松栄に絵を学び子孫は表絵師根岸御行松狩野家として幕末まで続いた一方京都残って活動続けた京狩野」という一派もあり、狩野永徳弟子であった狩野山楽(1559 - 1635)がその中心人物である。山楽豊臣秀吉家臣であった近江木村家出で、元の名を木村光と言った京都・大覚寺宸殿の障壁画牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地色彩豊かで装飾的な画面展開している。山楽娘婿養子狩野山雪(1589/90 - 1651)は、妙心寺天球院障壁画のほか、屏風絵などの現存作がある。樹木、岩などの独特の形態徹底した細部描写など、狩野派絵師の中では異色個性的な画風をもつ。山雪残した画論を、子の狩野永納(1631 - 1697)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる本朝画史』である。 木挽町家からは、江戸時代後期栄川院典信(えいせんいんみちのぶ、1730 - 1790)、養川院惟信(ようせんいんこれのぶ、1753 - 1808)、伊川栄信(いせんいんながのぶ、1775 - 1828)、晴川院養信(せいせんいんおさのぶ、1786 - 1846)などが出ている。晴川院養信は、天保9年1838年)と同15年1844年)に相次いで焼失した江戸城西の丸および本丸御殿再建際し膨大な障壁画制作狩野派棟梁として指揮した障壁画そのもの現存しないが、膨大な下絵東京国立博物館所蔵されている。晴川院は古画模写収集にも尽力した一般に江戸時代後期狩野派絵師対す評価はあまり高くないが、20世紀後半以降研究の進展により、晴川院は古典絵画から幕末新し絵画動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある。 晴川院の次代勝川雅信しょうせんいんただのぶ、1823 - 1880)の門下には、明治初期日本画壇の重鎮となった狩野芳崖下関出身、1828 - 1888)と橋本雅邦川越出身、1835 - 1908)がいた。芳崖と雅邦はともに地方狩野派絵師の家の出身であった職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府終焉とともにその歴史役目終えた

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「江戸時代中期以降」を含む「狩野派」の記事については、「狩野派」の概要を参照ください。

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