江戸時代以前の開発状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 07:42 UTC 版)
北上川流域には、平安時代末期に藤原清衡が中流域の平泉一帯に大勢力を築いていたが(奥州藤原氏)、中世においては在地の小豪族による争いが繰り返された。このため度々の水害に悩まされながらも、流域の治水・開発事業はほとんど手付かずのままであった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置によって北上川流域の在地豪族のほとんどが改易され、南部信直が上・中流域を、伊達政宗が下流域を支配することになり、江戸時代には引き続き南部氏の盛岡藩と伊達氏の仙台藩によって統治された。北上川流域の本格的な開発が始まるのは、この両藩によってである。 まず治水面については、仙台藩では寺池城主・白石宗直(相模守)が、慶長10年(1605年)に佐沼で合流していた北上川と迫川の分流工事に着手。慶長16年(1611年)に完成したこの堤防は相模土手と呼ばれ、これによって栗原郡・登米郡一帯の新田開発が促された。 さらに宗直の子・白石宗貞(若狭守)の代には若狭土手が完成し、治水は更に強化された。一方の盛岡藩では、信直が晩年に居城を盛岡城に移したが、北上川・雫石川・中津川の三本の河川が合流するこの地点は頻繁に洪水の被害を受けた。第3代藩主・南部重信は、盛岡城下町を水害から守るため、延宝8年(1680年)に雫石川と北上川の合流点に岩石を投入して水勢を弱める工事に着手。この事業は元禄15年(1702年)、第5代藩主・南部信恩の代まで続けられた。 利水面においては、仙台藩領の寿庵堰がよく知られている。北上川本流は鉱毒によって汚染されていたため、直接水を引くことが出来ず、取水は支流の河川から行わざるを得なかった。胆沢郡においては胆沢川の河水を利用していたが、天候による流量の増減が大きく水の安定供給が求められていた。そこで元和4年(1618年)、胆沢郡福原館主・後藤寿庵は、郡内の灌漑に供するための用水路を整備する事業に取り掛かった。ところがキリシタンであった寿庵が禁教令に従うことを拒んで仙台藩から出奔したため工事は頓挫する。しかしこの事業の重要性を認識していた政宗は、寛永2年(1625年)に千田左馬と遠藤大学に命じて工事を再開させ、寛永8年(1631年)には全長約43.0kmに及ぶ用水路が完成し、胆沢郡内の約3,000h aに及ぶ田畑への給水が可能となった。この寿庵堰は河川の水位を利用して胴(ど)と呼ばれる水管が水量を細かに調整するサイフォン式の設備を備えており、これにより安定した水量を水田に供給する事が可能となった。 これらの治水・利水事業の成果により、仙台藩は表高62万石に対して実高100万石、盛岡藩は表高10万石に対して実高23万石とも言われる収入を得て、収穫した米を江戸・大坂等に運んで売却した。 工事に際しては、当時は迷信が幅を利かせていたこともあり、水神の祟りを鎮める為として人柱が立てられ、その悲話が今に伝えられている。代表的なものとしては、若狭土手を築く際には「お鶴」という女性が生き埋めにされ、宿内川に千貫石堤(元禄4年(1691年)完成)を築く際には、「お石」という女性が千貫で買われ、牛と共に水神に捧げられたと伝わる。また、北上川中流域の紫波郡・和賀郡・稗貫郡では、支流河川の流量が少ないために水争いが絶えず、特に紫波郡では、俗に志和の水喧嘩と称される死者が出るほどの激しい抗争が繰り広げられた。これらの地域における水不足の根本的な解消は、昭和27年(1952年)の山王海ダムの完成を待たなければならなかった。
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