江戸時代以後
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頼芸は天正10年(1582年)まで生きて天寿を全うし、その子・頼次と頼元は旗本として幕府に仕えた。大名としての所領は与えられなかったが、名族として遇され高家旗本となっている。また、同じく頼芸の子頼忠は、豊臣秀吉高家衆、その子一圭は豊臣秀頼高家衆として大坂に仕えた。大坂落城後は、徳川頼宣に仕え、幕末まで紀州藩士として存続し、現在に至る。 治頼の子孫は紀州徳川家に仕え、徳川吉宗が将軍職を継いだ時に幕臣となった。
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江戸時代以後(仙台)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 13:54 UTC 版)
奥州仕置の際に政宗に従って会津を去った盛実は準一家の家格を与えられ、宮城郡菅谷(現:利府町菅谷)で120石を領したが、盛実の子・勘三郎は、薄給のため相応の格式を保てないとして、家格を返上して平士(虎間番士)に降格した。さらに勘三郎には実子がおらず、吉川氏から養子(又兵衛)を迎えたため、蘆名との血縁が無くなってしまうなど、苦難続きであった。 しかし、又兵衛は新田開発によって知行高を300石にまで伸ばし、又兵衛の曾孫・盛良が伊達吉村の近習に抜擢されて若年寄まで昇進したことで、享保13年12月(1729年1月)に金上氏は召出の家格を与えられ、門閥に復帰した。また盛良の実子が早世するか他家に養子に出ていたため、準一家・蘆名氏(もとは庶流針生氏。延宝4年(1676年)改姓)から盛広を婿に迎えたことで、蘆名との血縁が復活した。
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