江戸時代以降の伝来
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領地没収に際して、正則の孫である正利は御家存続のために正則の遺品を大御所である徳川秀忠や徳川三代将軍である家光に献上しており、本作も家光に献上された刀剣の一つであるとされる。その成果もあってか正利には3000石が与えられ旗本として存続することが出来た。一方で本作の伝来は不詳ながら、徳川八代将軍である吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録である『享保名物帳』には、常陸宍戸藩主である松平頼道の所持とされている。また、伊勢貞丈の弟子である榊原長俊が、1779年(安永8年)に記した『本邦刀剣考』にも本作に関する記述が遺されている。これ以降の伝来については明らかではない。
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江戸時代以降の伝来
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1882年(明治14年)に明治天皇が米沢への巡幸の際に本作が天覧に供されたところ、明治天皇は本作の絢爛たる刃文(はもん)を気に入り、「押形を欲しい」と望んだため、後に本作の詳細な刀絵図が作られて献上されたという。1937年(昭和12年)12月24日には、上杉憲章伯爵名義にて重要美術品に認定される。1949年(昭和24年)5月30日、国宝保存法に基づく旧国宝(文化財保護法における重要文化財に相当)に指定されている。その後、上杉家より散逸し、1997年(平成9年)当時は東京都在住の個人が所持していた。その後、米沢市で上杉家伝来の文化財、美術品を中心に展示する博物館(後の米沢市上杉博物館)が計画された際に、新博物館の資料とするため同年の米沢市議会六月市議会で八千万円の予算が計上され本作が購入されることになった。本作の購入に向けて日本美術刀剣保存協会と刀剣商を通して当時の所有者に交渉し、折衝の上で同協会や専門家で組織する審査会が検討して価格を決定した。なお、財源は市の博物館資料整備基金を取り崩しており、購入に際して市長の高橋幸翁は「価格は専門家に十分検討してもらった。 市の財政事情は厳しいが、新博物館の計画を進めるうえで購入を決めた。」とコメントしている。
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