御家存続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 15:41 UTC 版)
養嗣子としていた実弟の安経の殺害時、堀田家からの養子の安利の死去時、さらに堀田家から安政を養子に迎えた次点、さらに自身の死亡時でも、脇坂家には末弟の安総(旗本。安元の死去後に2千石を分知)がいまだ残っていた。この安総を養嗣子とする手段もあった。安元がそれをせずあえて堀田家から養子を迎えた理由として、安元は脇坂家の豊臣縁故の外様大名である立場に不安を抱いており、幕閣の大物である堀田家から養子を迎えることで徳川幕府との縁を作り、脇坂家の存続を図ったのであろう、と推測されている。寛永9年(1632年)4月の安経殺害時、その場に同席していた同じく実弟で美濃国脇坂藩主の脇坂安信は、一連の事件の責任を負う形で改易されている。 脇坂家は次代の安政が譜代扱いを願い出ることにより、願譜代として譜代に準ずる格式待遇を受けるようになった。さらに堀田家から数度の養子入りがあり、数代後に正式な譜代大名となっている。
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