御家人制の撤廃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:30 UTC 版)
「御家人#建武の新政」も参照 前代鎌倉幕府では、武士は特権階級である御家人(将軍と直接的主従関係を結んだ階層)と非御家人に分けられていた。その一方で、御家人の中でも北条得宗家を頂点とする事実上の身分格差が生じていたのに、建前としては「御家人は将軍の前でみな平等」というものだったため、制度と実態で様々なひずみが生まれていた。 こうした矛盾を解消するため、後醍醐天皇は、御家人制度とそれに付随する非効率的な御家人役システム(御恩に対する奉公として軍事力などを供出する制度)を撤廃し、公益・軍役賦課をより効率的・現実的なものに再編した。また、後醍醐としては、天皇家から見れば陪臣(家臣の家臣)に過ぎなかった御家人を、直臣に「格上げ」することで、この上ない栄誉を与えたのだという認識を持っていた。 はたして後醍醐から旧御家人層への好意が当人たちにどれだけ伝わったのかは不明だが、いずれにせよ、撤廃政策そのものは社会の実態に即し理に適った政策だった。その後、二度と鎌倉幕府的な御家人制が復活することはなく、一方で建武政権が新たに構築した公益・軍役賦課システムは、後進の室町幕府に影響を与えた。 研究史:『太平記』で悪意ある描写がなされているためか、戦後初期の研究では、佐藤進一らによって、後醍醐天皇は武士から特権を剥奪するために専制君主的に御家人制を撤廃し、そのために旧御家人であった中〜上級の武士層から反感を抱かれたのだと説明されていた。しかし、2008年に吉田賢司が、『結城錦一氏所蔵結城家文書』の後醍醐天皇事書(建武2年(1335年))の文に後醍醐天皇の考えが現れていることを指摘し、少なくとも後醍醐の側では武士を思いやっての善意の処置だったことが判明した。
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