流布本『太平記』の創作
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「建武の新政」の記事における「流布本『太平記』の創作」の解説
建武政権の時代にある程度の混乱があったことは事実だが、それ以上に軍記物語(一種の歴史小説)である流布本『太平記』の創作によって、誇張して伝わっている部分がある。 鎌倉時代の武士の特権階級である御家人が撤廃されて、武士はみな奴婢雑人のように扱われるようになってしまった(流布本巻12「公家一統政道の事」)史実:そもそも御家人制は鎌倉時代末期既に破綻しつつあった。また、後醍醐天皇は武士に好意を抱いており、武士を陪臣(家臣(ここでは将軍)の家臣)から、天皇の直臣に昇格させて、武士の地位の向上を図る狙いもあった(→御家人制の撤廃)。 恩賞方を設置して、功績ある武士たちに恩賞を配布し始めたのは、後醍醐天皇が帰京して新政を始めてから二ヶ月も経った元弘3年(1333年)8月3日のことだった(流布本巻12「公家一統政道の事」)。史実:実際は遅くとも7月19日には恩賞を配布し始めているため(『集古文書』)、7月には既に恩賞方が設置されていたと考えられる。 元弘の乱で失脚した北条泰家の領地は、そっくりそのまま後醍醐天皇皇子の護良親王に与えられるなど、身内を優遇したために、武士に与えられる場所がなくなってしまった(流布本巻12「公家一統政道の事」)。史実:泰家から没収された領地の多くは新田氏庶流(だが新田氏派閥ではなく足利氏派閥)の岩松経家にも与えられており、功ある武士にも良質な地の恩賞を配っている(『集古文書』)。 恩賞方の長官は一人で、「上卿」と言い、洞院実世は実力不足から解任され、次の万里小路藤房は正道が行われない怒りから辞職し、さらに次の九条光経も後醍醐と佞臣の無道におろおろとするだけだった(流布本巻12「公家一統政道の事」)。史実:初期の恩賞方の制度に関する文献は残っていないため不明だが、翌年に4番制になったときには藤房が恩賞方の頭人(トップの一人)となっているため、彼が恩賞方の政務を離れたというのは史実と矛盾する。 元弘3年(1333年)7月に「建武」に改元したところ、疫病が流行り、さらに紫宸殿の上に怪鳥が現れたので、真弓広有が8月17日の夜に弓矢で退治した(流布本巻12「広有怪鳥を射る事」)。史実:怪鳥が現れたのが史実ではないのは無論のことだが、そもそも改元があったのは元弘4年(1334年)1月29日である。 側近の万里小路藤房は、後醍醐天皇へのたびたびの諫言が受け入れられなかったため、建武政権に失望し、元弘3年の翌年(1334年)の3月11日の天皇の八幡行幸に同行した後、出家した(流布本巻13「藤房卿遁世の事」)。史実:建武元年(1334年)10月5日で日付が半年も違い(『公卿補任』)、しかも「俄遁世」(突然出家してしまった)とあるだけで、理由までは不明である(『尊卑分脈』)。人生の絶頂期に理由なく出家を願うようになった人物としては、他にも足利尊氏などがおり、この時代では珍しいものではない。 元弘の乱で功績のあった足利高氏(尊氏)を初めほとんど中央で用いず、中先代の乱が発生してから、高氏(尊氏)をおだてて出陣させるために、後醍醐天皇の諱の「尊」の字と、征東将軍の地位を与えた(流布本巻13「足利殿東国下向の事附時行滅亡の事」)。史実:元弘の乱からの帰京と同時に高氏(尊氏)を鎮守府将軍に任命して、元弘の乱の戦後処理と建武政権の全軍指揮権を任せ、二ヶ月後には「尊」の字を授与するなど、政権発足当初から名実の両方で破格の厚遇を与えている(→足利兄弟の重用)。 建武3年2月25日、建武の年号は公家のために不吉だと批判が噴出したために、延元に改元された(流布本巻15「主上山門より還幸の事」)。史実:実際に改元があったのは2月29日で、しかも公家は建武の年号を変えるのを渋っていた(#建武の元号)。
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