建武の元号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:30 UTC 版)
建武の新政の最大の特徴の一つが、「建武(けんむ)」という元号の名前の付け方そのものである。これは、中国の後漢の創始者で、中国最高の名君の一人とされる光武帝が、王位簒奪者王莽を倒した時に創始した元号の建武(けんぶ、25年 - 56年)に倣ったものである。時節に合った佳字(めでたい字)であることから、公家・武家・学識者・仏教勢力からは非常に評判が良かった。しかし、建武の乱の最中に、漢籍の故事に詳しくない民衆から不吉と批判されたため、わずか3年目に延元に改元することになってしまった。一方、後醍醐天皇を崇拝し、建武政権の後継者を自認する足利尊氏によって、北朝の側ではその後も継続されることになった。以下、詳細を述べる。 『改元部類』によれば、元弘4年(1333年)、新しい元号を決めるために、5人の学者が集められ、後醍醐天皇は、「出典元の文の善し悪しは問わない」「中国の王朝の故事に倣って、今の時代を体現するような字」という条件で、元号の候補を出すように求めた。学者たちは以下の元号の候補を出した。 藤原藤範建武、咸定、延弘 菅原長員(高辻家)興国、垂拱、淳化、天祐、中興 菅原在登(壬生坊城家(東坊城家?))建武、元聖、武功 藤原行氏元吉、元貞、大中 菅原在淳(壬生坊城家)大武、元龍、建聖 「建」という字も「武」という字も5人中3人の学者から支持されていて人気の上に、「建武」という組み合わせは2人から挙がっていて、後醍醐天皇自身の意見とは別に、課題抽出の段階で既に有力候補だったことが見てとれる。そもそも「武」という字の成り立ちは、当時の解釈では、『春秋左氏伝』に「戈を止む」(戦乱が治まる)とあり、天下平定を表す好字だった(現代の漢字学では異説あり)。以上の中から、「建武」「大武」「武功」の3つが、「天長之例」(天下が久しく続く証)として最終候補に選ばれ、菅原在淳と菅原在成の2人の文章博士から奏上された。1月28日、右大臣の久我長通らが参内して会議が始められ、議論は29日まで続き、結局は元々の最有力候補だった「建武」に決まった。 中国の故事を踏まえた元号は、仏教勢力からも評判がよく、雄徳山護国寺(現在の石清水八幡宮)は、後醍醐天皇が昔の中国の名君の元号を採用したことについて、「一天均統之化、和漢相似、四海雍煕之槃、古今盍同」(天下統一の徳によって人民が善良に導かれることは、日本も中国も違わないし、全土の平和によって皆が喜びに湧くことは、今と昔で同じでないことがあろうか)と褒め称えた(『護国寺供養記』)。 公家たちは建武の年号に愛着があったらしく、建武の乱の最中に改元の議題が持ち上がったときは、こぞって反対した様子が、中院通冬の『中院一品記』建武3年29日条に記録されている。まず高倉光守が不満を述べて、「今度の改元は不審だ。建武が不吉などとは、何事だろうか(そんなことがあろうはずはない)。確かに凶徒(足利方)が京都に乱入しはしたが、すぐに敗北して逃げていってしまっただろう。そもそも、後漢の光武帝の建武の時には、2、3年の間は戦乱が続いたが、それでも31年の間は元号を改めなかったではないか」と指摘した。平惟継も、初めて改元の指示があった時に、後醍醐に対し「建武の号を付ける時に、わたくしは(光武帝の先例に従って)近い内に戦乱が起こるだろうと申し上げました。(予見があったのに)いま改めるのは矛盾ではありませんか(だから軽々しく改元すべきではありません)」と諫言したことを述べた。そこへ右大臣の洞院実世が発言して、「庶民が改元を噂している。今回の改元の儀は、すべて再び民心を改めるためだけのものである。天下が建武を受け入れないのだから仕方がない」と、自分も建武のままが良いと思っているが、民衆の側に不満がある以上、民の意見を尊重するべきだと述べた。こうして、「建武」という元号は、建武政権・南朝の側では3年目、わずか2年間の使用で終わった。 一方、形の上では敵である足利尊氏は、心では後醍醐天皇を崇拝しており、建武の元号を5年目まで使い続けた。反乱者が消極的理由から同じ元号を使い続けることは珍しいことではないが、尊氏の場合は、光明天皇を擁立して元号を変える権力を握った時点でも、改元せずに元号継続を決定しており、積極的に「建武」を肯定していた。この理由について、亀田俊和は、尊氏は自らを建武政権の正統な後継者であるとアピールしたかったのではないか、と推測している。事実、室町幕府の基本法『建武式目』では、目標とする理想の時代として、「義時・泰時父子の行状」(=北条氏による武家政権の全盛期)と「延喜・天暦の特化」(=醍醐天皇・村上天皇の治世)が挙げられており、後者は建武政権のスローガンと全く同じである。また、スローガンだけではなく、施行状(しぎょうじょう)の発行(訴訟判決を強制執行させるための制度)など、内容の面でも後醍醐天皇の政策を受け継いだ。
※この「建武の元号」の解説は、「建武の新政」の解説の一部です。
「建武の元号」を含む「建武の新政」の記事については、「建武の新政」の概要を参照ください。
- 建武の元号のページへのリンク