建武の新政と新庄熊谷氏との戦い
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「熊谷直経」の記事における「建武の新政と新庄熊谷氏との戦い」の解説
建武の新政が始まったが、武士はまた公家の犬として扱われ、不公平な立場に置かれることとなった。直経の所領も、反逆者の所領として没収されかったが、訴訟により半分だけは奪回した。武士の同様な不満が日本国中に満ちあふれ、ついに建武2年(1335年)、足利尊氏が鎌倉において挙兵する。安芸守護武田信武も、尊氏に同調し、同年12月に挙兵する。同様に後醍醐天皇が指導する朝廷への不満から、毛利元春や吉川実経等をはじめとする安芸国の有力な豪族が尊氏方に参加。傷の癒えた直経は足利方に加わり、京都へ向かって進撃を開始する。しかし直経の分家筋であった熊谷蓮覚とその子直村、甥の直統らは南朝方に味方し、足利軍の東上を阻むべく矢野城に立て篭もった。そして武田信武率いる足利勢との間に同年12月23日、矢野城攻防戦が開始された。少数とはいえ天然の要害を利用した堅城であった矢野城に立てこもった蓮覚は、多勢の武田軍を相手に奮戦奮闘し、寄せ手の吉川師平が討死、多くの将兵が負傷、死亡した。しかし4日間の籠城戦の後、矢野城は落城。熊谷蓮覚ら一族は討死した。
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