建武政権の瓦解と北朝の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 09:17 UTC 版)
「南朝 (日本)」の記事における「建武政権の瓦解と北朝の成立」の解説
鎌倉時代に皇統は後深草系統の持明院統と亀山系統の大覚寺統のふたつに分裂する両統迭立が起こる。両統は皇位を争奪し、鎌倉幕府が仲裁していた。文保2年(1318年)に践祚して親政を開始した大覚寺統の後醍醐天皇は倒幕計画を企て、1331年に三種の神器を持って笠置山へ入り挙兵すると、幕府の奏請により持明院統の光厳天皇が践祚する。 1333年、反幕勢力の結集により鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇は京へ戻り、光厳天皇と正慶年号を廃して建武の新政を開始する。1335年(建武2年)、7月に関東で中先代の乱が起こると後醍醐天皇は討伐に向かった足利尊氏を黙認するが、乱を平定した尊氏は鎌倉に留まり建武政権から離反する。宮方は京都に進撃してきた尊氏を撃破する。翌1336年、九州落ちしていた尊氏は持明院統の光厳上皇から院宣を受けて再び東上する。宮方では新田義貞、楠木正成らを迎撃に派遣するが、5月尊氏は湊川の戦いにおいて新田ら宮方を撃破して入京する。後醍醐天皇は叡山に逃れて抵抗するが、8月には光明天皇が践祚して北朝が成立し、11月に帰京した後醍醐天皇から三種の神器を接収した尊氏は京都に武家政権(のちの室町幕府)を成立させる。
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