建武政権下の義貞
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上洛後の8月5日、叙位、除目が行われ、義貞は従四位上に叙され、左馬助に任官した。さらに上野守、越後守、10月には、播磨守となった。弟の脇屋義助は駿河守となり、長男の義顕も越後守に任ぜられ、従五位上に叙された。同時に義貞兄弟はじめ新田一族は多くの所領を拝領したものと思われるが、それを明示する史料は現存していない。既に義貞は30代半ばの年齢に達していたと思われるが、この時期の義貞の行動を観察すると、あまり思慮深い行動が見られず、政治の世界における遊泳術はさほど達者でなかったと指摘されている。建武政権発足後、義貞は越後国で反乱を起こした旧北条勢力の大河将長、小泉持長らを討伐し、これを鎮圧した。 一方、ライバルの足利尊氏は、従三位に叙され、武蔵守に任官された上、鎮守府将軍に任ぜられた。弟の直義は、相模守となった。義貞が叙任された四位と尊氏の三位では雲泥の差があり、また国司として拝領した国も、義貞兄弟が拝領したものは北条氏の傍流のものであったのに対し、足利兄弟が拝領したのはかつて得宗が統治していた国であった。既に、新田と足利の差は歴然としたものがあった。 同年、義貞は武者所の長たる頭人となる。義顕、脇屋義治、堀口貞義、江田行義、一井貞政ら、一族の多くも武者所に配された。また、上野・越後両国守護を兼帯。翌年、播磨守と同国守護も兼帯。以後、左衛門佐・左兵衛督などの官職を歴任。なお、上洛の時期から義貞の使用する花押の形に変化が生じている。 この頃、建武政権では足利尊氏と護良親王による政争が起こっていた。『梅松論』は、義貞が親王、楠木正成、名和長年らと結託して、尊氏に対して軍事行動に及ぼうとすることが度々あったと記する。義貞や親王が尊氏に対して軍事行動を起こそうとした旨の記述は梅松論以外の史料には見られないが、実際にそのような動きがあったかもしれないと考えられている。 親王は、やがて尊氏の策略によって父の命令により拘束、幽閉される。この時、義貞は武者所の頭人として、親王の捕縛を主導した。一方、田中大喜は建武政権において武家の中で唯一公卿の地位にあった尊氏が役職の有無に関わらず建武政権の軍事責任者であり、義貞を武者所の頭人にしたのは他ならぬ尊氏であって、足利氏-新田氏の支配・従属関係がそのまま建武政権内での所管-被管に反映されたとする。天皇の命令であったとはいえ、政治的に接近していた親王の捕縛に関与したことは、義貞の政治的な力量の未熟さ、また宿敵尊氏との差を示す点として指摘されている。 親王失脚後、旗頭を失った宮方が、新たな旗頭に義貞を擁立しようとする動きを見せた。源氏の血族であること、鎌倉幕府打倒の武功などの要素から、義貞に尊氏の新たな対抗馬として白羽の矢が立った。背景には、親王の代わりに義貞を使って尊氏を牽制しようとする後醍醐天皇の意図もあった可能性もある。この時期、新田一族の昇進が顕著であり、義貞自身は左兵衛督になった。これらの昇進は、義貞を尊氏の対抗馬にしようとする天皇の意図の傍証となっている。
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