建武政権下の義貞とは? わかりやすく解説

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建武政権下の義貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)

新田義貞」の記事における「建武政権下の義貞」の解説

上洛後8月5日叙位除目が行われ、義貞は従四位上叙され左馬助任官した。さらに上野守越後守10月には、播磨守となった。弟の脇屋義助駿河守となり、長男の義顕も越後守に任ぜられ、従五位上叙された。同時に義貞兄弟はじめ新田一族多く所領拝領したものと思われるが、それを明示する史料現存していない。既に義貞は30代半ば年齢達していたと思われるが、この時期の義貞の行動観察すると、あまり思慮深い行動見られず、政治世界における遊泳術はさほど達者でなかったと指摘されている。建武政権発足後、義貞は越後国反乱起こした北条勢力大河将長、小泉持長らを討伐し、これを鎮圧した一方ライバル足利尊氏は、従三位叙され武蔵守任官された上、鎮守府将軍に任ぜられた。弟の直義は、相模となった。義貞が叙任され四位尊氏三位では雲泥の差があり、また国司として拝領した国も、義貞兄弟拝領したものは北条氏傍流のものであったのに対し足利兄弟拝領したのはかつて得宗統治していた国であった。既に、新田足利の差は歴然としたものがあった。 同年、義貞は武者所の長たる頭人となる。義顕、脇屋義治堀口貞義、江田行義一井貞政ら、一族多く武者所配された。また、上野越後両国守護兼帯翌年播磨守同国守護兼帯以後左衛門佐左兵衛督などの官職歴任。なお、上洛時期から義貞の使用する花押の形に変化生じている。 この頃建武政権では足利尊氏護良親王による政争起こっていた。『梅松論』は、義貞が親王楠木正成名和長年らと結託して尊氏に対して軍事行動及ぼうとすることが度々あったと記する。義貞や親王尊氏に対して軍事行動起こそうとした旨の記述梅松論以外の史料には見られないが、実際にそのような動きあったかしれない考えられている。 親王は、やがて尊氏策略によって父の命令により拘束幽閉される。この時、義貞は武者所頭人として、親王捕縛主導した一方田中大喜建武政権において武家の中で唯一公卿地位にあった尊氏役職有無関わらず建武政権軍事責任者であり、義貞を武者所頭人にしたのは他ならぬ尊氏であって足利氏新田氏支配従属関係そのまま建武政権内での所管被管反映されたとする天皇命令であったとはいえ政治的に接近していた親王捕縛関与したことは、義貞の政治的な力量未熟さ、また宿敵尊氏との差を示す点として指摘されている。 親王失脚後旗頭失った宮方が、新たな旗頭に義貞を擁立しようとする動き見せた源氏血族であること、鎌倉幕府打倒武功などの要素から、義貞に尊氏新たな対抗馬として白羽の矢立った背景には、親王代わりに義貞を使って尊氏牽制しようとする後醍醐天皇意図もあった可能性もある。この時期新田一族昇進顕著であり、義貞自身左兵衛督になった。これらの昇進は、義貞を尊氏対抗馬にしようとする天皇意図傍証となっている。

※この「建武政権下の義貞」の解説は、「新田義貞」の解説の一部です。
「建武政権下の義貞」を含む「新田義貞」の記事については、「新田義貞」の概要を参照ください。

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