建武政権東寺時代略歴
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元弘3年(1333年)6月5日の建武政権開始後、しばらく文観の音沙汰はなくなる。しかし、10月25日に後醍醐天皇は、腹心の武将楠木正成の菩提寺である観心寺に対し、弘法大師空海作と伝わる不動明王像を引き渡すように、綸旨(天皇の私的命令文)をもって命じている。正成と観心寺も素早くこれに応じ、翌日には正成自らの護送によって不動明王像が宮中に運ばれた。この一連の動きには、文観の献策があったとも言われている。 建武元年(1334年)3月には、叡尊ゆかりの石清水八幡宮で国家鎮護の大法である仁王経を修した。さらに、4月から6月ころには、真言宗醍醐派の長である第64代醍醐寺座主に登った。 同年5月18日には、文観に観音信仰を伝えた母が没した。文観は亡母供養として、自ら絵筆を取って三七日(みなぬか、数え21日目)に『絹本著色五字文殊像』(重要文化財、奈良国立博物館蔵)を、五七日(いつなぬか、数え35日目)に八字文殊画像(個人蔵)を描いた。これらには、真言密教の伝統的な文殊図様の形式と、真言律宗の忍性に始まる亡母供養としての文殊信仰の両方が表現されている。 同年8月30日には東寺大勧進職に補任された。これは、戒律関係の高僧が任じられる慣例のため、文観は真言僧というより律僧としてこの地位に就いたものとみられる。そして、建武2年(1335年)3月15日、数え58歳のとき、文観はついに真言宗の盟主である正法務・第120代東寺一長者に補任された。貴種が尊ばれた旧仏教界において、地方の平民に生まれた律僧出身者が栄耀栄華を極めたというのは異例である。 しかし、中央仏教界における要職を一手に独占した文観に対し、紀伊国(和歌山県)の高野山金剛峯寺からは痛烈な批判が浴びせられ、解任を求める訴状が提出された。この上奏文は、文観の独裁による弊害を危惧したという体裁にはなっているが、実際には文観の低い出自とそれにまつわる偏見に批判が集中している。そのため、仏教美術研究者の内田啓一によれば、後醍醐天皇がある人物を寵遇したことそのものが問題だったのではなく、その人物が律僧出身者という低い身分だったことに高野山からの反感があったのではないか、という。 建武2年(1335年)10月から年末にかけては、文観は東寺一長者として多忙な公務をこなした。10月14日に播磨国(兵庫県)で青年期に支援をしてくれた宇都宮長老の菩提を弔い、1週間後の21日には京都に戻って国家鎮護の大法である仁王経法を行じ、その1週間後の28日にはやはり護国の法会である仁王会を修した。30日に舞楽曼荼羅供、閏10月にも週ごとに後醍醐天皇のための祈祷や儀式を行った。同年12月13日には、東寺西院御影堂に三衣と鉢を、同月25日には河内国(大阪府)の天野山金剛寺 (河内長野市)に仏舎利を施入した。 翌建武3年(1336年)1月7日には、東寺の大法である後七日御修法を開始した。しかし、この頃既に後醍醐天皇と足利尊氏の戦いである建武の乱が始まっており、10日に尊氏が京都へ攻め入ったため、後七日御修法は中断された。やがて尊氏は敗退し九州に退いたため、文観は京へ戻り、3月21日には大僧正に補任された。だが、尊氏は九州で多々良浜の戦いに勝利して再起し、5月には湊川の戦いで楠木正成を敗死させて京に迫った。 この頃、文観は要職を解任され、6月には第65代醍醐寺座主として尊氏と親しい三宝院賢俊が、9月には第121代東寺一長者として成助が補任されている。通説的見解では、この二人は文観の敵対派閥であり、文観を排除したのだとされている。しかし、内田は、実際にはこの2人は文観から付法(伝授)を受けたことがあるため、師から弟子への穏当な交替と見なすことも可能であることを指摘している。尊氏の攻勢は続いているとはいえ、この時点での帝位は依然として後醍醐天皇であることも傍証となるという。 10月1日には後醍醐天皇によって河内国天野山金剛寺が勅願寺に指定された。11月7日、京都攻略を完了した足利尊氏は『建武式目』を発布して幕府を開いた。 なお、この時の戦乱で、観心寺から宮中に移されていた伝・空海作の不動明王像の本体は焼失した。しかし、この数年以内におそらく文観の監修によって模造が作成され、後に観心寺に寄進された。観心寺における不動明王像等の配置は、文観の「三尊合行法」に従っているとも言われる。文観監修(推定)の不動明王像は、重要文化財に指定されている。
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