第64代醍醐寺座主
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建武の新政開始後の元弘3年(1333年)10月25日、後醍醐天皇は、河内国の武将楠木正成の菩提寺である観心寺に対し、弘法大師空海作と伝わる不動明王像を渡進するように綸旨を発した(『河内長野市史』第4巻所収綸旨)。寺社への綸旨としては、余り見ないものである。観心寺と正成の対応も非常に素早く、翌26日には、不動明王像を同月28日に正成の手によって京都へ護送されることが決定した(『河内長野市史』第4巻所収楠木正成書状)。この不動明王の一件は、文観の沙汰によるものだったとも言われている(『河内長野市史』第4巻所収「観心寺参詣諸堂巡礼記」)。 建武元年(1334年)3月、石清水八幡宮で仁王経を修した(『醍醐寺座主次第』)。仁王経とは、国家の鎮護に使われる大法であり(#天皇に伝法灌頂を授ける)、後醍醐のための修法であることは明らかである。なお、真言律宗の開祖である叡尊も、後醍醐の祖父である亀山上皇のために、元寇第2回が発生した弘安4年(1281年)の1月から7月にかけて、石清水八幡宮の八幡大乗院で国家鎮護のための祈願を行っている。石清水八幡宮は国家守護の聖地であり、かつ、文観にとっても、後醍醐にとっても、関わりの深い寺院だった。 同年前半、文観は、真言宗醍醐派の長である第64代醍醐寺座主に登った(『醍醐寺新要録』第14巻所収「醍醐座主次第」)。その正確な月日はわからないが、4月1日には道祐がまだ第63代であり(『続史愚抄』巻20)、6月9日に描いた『絹本著色五字文殊像』では自署で「醍醐寺座主僧正弘真」を名乗っているので、この間だと考えられる。文観は、「醍醐座主次第」では「一階僧正也」(一階僧正とは通例の段階を飛ばして僧正になった僧)と記載されており、公家出身者が多く「何々息」と記されることが多い醍醐寺座主には珍しい例である。同書によれば、後醍醐から文観への帰依は「青於藍」ときわめて深く、文観はたびたび大法・秘宝を修したという。 「醍醐寺座主次第」は、この時の文観の権勢を「法顕無双之仁(中略)祖師再生カ」と評している。 醍醐寺座主補任と前後するが、建武元年(1334年)5月18日、文観の母が没した。文観は、亡母への供養として、三七日(みなぬか、数え21日目)と五七日(いつなぬか、数え35日目)に文殊菩薩の画像を描いている。三七日に描いたのは『絹本著色五字文殊像』(重要文化財、奈良国立博物館蔵)であり、五七日に描いたのは八字文殊画像(個人蔵)である。 文殊画像を慈母供養として用いることは、真言律宗の忍性から始まる流儀である。一方で、文観の文殊画像には密教形式の図像に倣った点も認められ、文観は真言律僧と真言僧の両方の意識を併存して保っており、画業にもそれを表現していることが見て取ることができる。文観は、翌2年(1335年)10月7日には、八字文殊画像を東寺西院御影堂に奉納した。
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