第64代醍醐寺座主とは? わかりやすく解説

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第64代醍醐寺座主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「第64代醍醐寺座主」の解説

建武の新政開始後の元弘3年1333年10月25日後醍醐天皇は、河内国武将楠木正成菩提寺である観心寺対し弘法大師空海作と伝わる不動明王像を渡進するように綸旨発した(『河内長野市史』第4巻所収綸旨)。寺社への綸旨としては、余り見ないのである観心寺と正成の対応も非常に素早く、翌26日には、不動明王像同月28日に正成の手によって京都護送されることが決定した(『河内長野市史』第4巻所収楠木正成書状)。この不動明王一件は、文観沙汰よるものだったとも言われている(『河内長野市史』第4巻所収観心寺参詣諸堂巡礼記」)。 建武元年1334年3月石清水八幡宮仁王経修した(『醍醐寺座主次第』)。仁王経とは、国家鎮護使われる大法であり(#天皇に伝法灌頂を授ける)、後醍醐のための修法であることは明らかである。なお、真言律宗開祖である叡尊も、後醍醐祖父である亀山上皇のために、元寇第2回発生した弘安4年1281年)の1月から7月にかけて、石清水八幡宮八幡大乗院国家鎮護のための祈願行っている。石清水八幡宮国家守護聖地あり、かつ、文観にとっても後醍醐にとっても関わりの深い寺院だった。 同年前半文観は、真言宗醍醐派の長である第64代醍醐寺座主に登った(『醍醐寺新要録第14巻所収醍醐座主次第」)。その正確な月日わからないが、4月1日には道祐がまだ第63代であり(『続史愚抄』巻20)、6月9日描いた絹本著色五字文殊像』では自署で「醍醐寺座主僧正弘真」を名乗っているので、この間だと考えられる文観は、「醍醐座主次第」では「一階僧正也」(一階僧正とは通例段階飛ばして僧正になった僧)と記載されており、公家出身者多く何々息」と記されることが多い醍醐寺座主には珍しい例である。同書によれば後醍醐から文観への帰依は「青於」ときわめて深く文観はたびたび大法秘宝修したという。 「醍醐寺座主次第」は、この時の文観権勢を「法顕無双之仁(中略祖師再生カ」と評している。 醍醐寺座主補任前後するが、建武元年1334年5月18日文観の母が没した文観は、亡母への供養として、三七日みなぬか数え21日目)と五七日(いつなぬか、数え35日目)に文殊菩薩画像描いている。三七日描いたのは『絹本著色五字文殊像』(重要文化財奈良国立博物館)であり、五七日描いたのは八字文殊画像個人)である。 文殊画像慈母供養として用いることは、真言律宗忍性から始まる流儀である。一方で文観文殊画像には密教形式図像倣った点も認められ文観真言律僧真言僧の両方意識併存し保っており、画業にもそれを表現していることが見て取ることができる。文観は、翌2年1335年10月7日には、八字文殊画像東寺西院御影堂奉納した

※この「第64代醍醐寺座主」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「第64代醍醐寺座主」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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