天皇に伝法灌頂を授ける
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
正中2年(1325年)10月、文観房弘真は後醍醐天皇に印可(悟りを得たことの証明)と仁王経秘宝を授け、内供奉という地位に任じられた(『瑜伽伝灯鈔』)。この印可は、真言律宗側のではなく、真言宗醍醐派報恩院流としてのものだと考えられる。「仁王経秘宝」というのは、国家を鎮護するために使われる大秘術である。内供奉(ないぐぶ)というのは、十禅師とも呼ばれ、宮中の御用僧侶のことである。 なお、呪術や祈祷と言うと、現代人の目からすれば非合理的なものに見える。しかし、当時の感覚では、合理的な理論に支えられた、実利的な技術だと考えられていた。中でも、真言密教の修法(祈祷)は、顕教(密教以外の仏教)・神祇・陰陽道以上に信頼性が高く、最も現実的で合理的なものと見なされていたのである。 嘉暦2年(1327年)6月1日、六波羅奉行人の真性(俗名は宗像重像)によって、後醍醐天皇が崇拝する愛染明王の画像が、京都の五智山蓮華寺に寄進された(のちMOA美術館蔵、重要文化財)。6月1日というのは、鬼宿という日に当たり、愛染明王にとって最上の日とされていて、意図的にこの日を選んだものとみられる。この真性は、3年前、文観に般若寺文殊像を布施した幕府高級官僚伊賀兼光の、有力な部下とみられる人物である。内田啓一は、根津美術館蔵の愛染明王画像との関連性や、文観の画風も踏まえ、この画像を監修もしくは実制作したのは文観ではないか、と推測している。 同年10月、文観は宮中の仁寿殿で後醍醐天皇に両部伝法灌頂職位を授けた(『瑜伽伝灯鈔』)。仁寿殿とは、東寺長者が毎月18日に、二間観音(天皇家の神器の一つ)を用いて二間観音供を行うという、宮中でも特に仏教的色彩の濃い宮殿である。報奨として後醍醐天皇は文観を権僧正に補任したが、その時の書類は宸筆、つまり天皇自らによる直筆の文書だった。また、文観は沙金(砂金)50金も与えられた。内田によれば、律僧という出身の文観にとって、天皇が直々に書いた書を賜るというのは感慨深かったであろうという。 こうして、文観は地方出身の遁世僧という身から、帝王の師となった。このとき数え50歳。
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