天皇に伝えられた宣言の成立過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 02:17 UTC 版)
「ポツダム宣言」の記事における「天皇に伝えられた宣言の成立過程」の解説
ポツダム宣言には、当時の日本国民がもっとも関心を持っていた天皇制がどうなるのか、ということが含まれていなかった。戦後になって、太田三郎は直接起草者のユジーン・ドゥーマンから、そうなった理由を聞き、その内容を天皇に伝えた。 戦前、駐英外交団の一員だった太田は、同じロンドンにあったアメリカ大使館の一等書記官のドゥーマンと知り合い、日米開戦時まで親交を続けた (ドゥーマンは日本生まれで日本語に堪能であった)。終戦直前、情報局情報官であった太田は、日本で最初にポツダム宣言に接し、その文体の特徴から作ったのはドゥーマンであると直感したという。 戦後間もない1950年に太田は運輸審議会委員として渡米した折、コネチカット州にあるドゥーマンの自宅に招かれ旧交を温めた。ドゥーマンは「ポツダム宣言の成立過程をぜひ日本人に伝えておかなければならない、今までしゃべる機会がなかったし、君は最適なのでぜひ聞いてほしい」と言って一抱えもある資料を持ち出して深夜から夜明けまで熱心に語った。ドゥーマンが語ったのは、ポツダム宣言の最初の草案を書いてグルーに渡したのは自分であること、また、そのころの国務省や世論は天皇制こそが軍国主義の元凶であるという誤った認識を持っていて、廃止論を唱える者が多く、いかに苦労して天皇制廃止論者と戦ったか、ということであった。 太田としては初めて聞くことなので大いに興奮し、そのまま帰国して知り合いの松平式部官長にいきさつを話した。すると松平も感動して「君、その話をぜひ陛下にしてさしあげてくれないか、実は陛下も、天皇制はグルーさんがはからって残してくれたんだろう、とは思っていらっしゃるが、そんなにやってくれたとはご存じない、きっと陛下はお喜びになるし、興味をお持ちになるに違いない」と言われ、直接天皇に話すことになった。天皇は太田の話に大変興味を持ち、ときどき「そうお!」と相槌を打って聞き入った。太田は話す内容を一応原稿にして持って行ったが、途中からは原稿そっちのけで熱心に語り、予定の時間を大幅に超えた。
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