正法務・第120代東寺一長者とは? わかりやすく解説

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正法務・第120代東寺一長者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「正法務・第120代東寺一長者」の解説

東寺供養記』建武元年8月30日によれば文観は、建武元年1334年8月までには、東寺大勧進職という職に補任されていた。この職は12世紀文覚から始まるもので、戒律関係の高僧補任されることが多く文観もまた真言僧というよりは律僧としてこの職に就いたものと思われる。同条によれば文観大勧進職として東寺修理諮問受けており、修繕事業かなりの権限持っていたことがわかる。また、同条によれば8月30日ごろには理由不明だ文観故郷播磨国兵庫県)に一時滞在しており、同書9月9日によれば9月初頭には帰京している。また同条によればこの頃、「小野僧正」の通称でも呼ばれている。 建武2年1335年3月15日文観法務・第120東寺一長者に任ぜられた。東寺一長者とは、官寺である東寺教王護国寺)の長官であると共に真言宗全体盟主である。法務とは正法務ともいい、律令制において全仏教を統率する定められ僧職で、慣例として東寺一長者兼任した平安時代最末期には、法務正法務の上位に、法親王入道親王など皇族勅任される総法務設置されたものの、横内裕人の主張によれば総法務権力基盤親族である院(上皇)の権勢背景とした変則的なものであり、伝統的権力構造における仏教界の実力者依然として正法務東寺一長者だったという。同年3月20日には、文観宝菩提院住房とし、翌21日には東寺一長者として弘法大師御影供という東寺恒例行事行った文観弘真地方平民生まれた律僧という出自ながら、日本の僧界の頂点として、栄華極めたのだった。このとき数え58歳。仏門志してから45年歳月流れていた。

※この「正法務・第120代東寺一長者」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「正法務・第120代東寺一長者」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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