正法務・第120代東寺一長者
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「文観」の記事における「正法務・第120代東寺一長者」の解説
『東寺塔供養記』建武元年8月30日条によれば、文観は、建武元年(1334年)8月までには、東寺大勧進職という職に補任されていた。この職は12世紀の文覚から始まるもので、戒律関係の高僧が補任されることが多く、文観もまた真言僧というよりは律僧としてこの職に就いたものと思われる。同条によれば、文観は大勧進職として東寺の修理に諮問を受けており、修繕事業にかなりの権限を持っていたことがわかる。また、同条によれば、8月30日ごろには理由不明だが文観は故郷の播磨国(兵庫県)に一時滞在しており、同書9月9日条によれば、9月初頭には帰京している。また同条によれば、この頃、「小野僧正」の通称でも呼ばれている。 建武2年(1335年)3月15日、文観は法務・第120代東寺一長者に任ぜられた。東寺一長者とは、官寺である東寺(教王護国寺)の長官であると共に、真言宗全体の盟主である。法務とは正法務ともいい、律令制において全仏教を統率すると定められた僧職で、慣例として東寺一長者が兼任した。平安時代最末期には、法務(正法務)の上位に、法親王や入道親王など皇族が勅任される総法務が設置されたものの、横内裕人の主張によれば、総法務の権力基盤は親族である院(上皇)の権勢を背景とした変則的なものであり、伝統的権力構造における仏教界の実力者は依然として正法務=東寺一長者だったという。同年3月20日には、文観は宝菩提院を住房とし、翌21日には東寺一長者として弘法大師御影供という東寺恒例の行事を行った。 文観房弘真は地方の平民に生まれた律僧という出自ながら、日本の僧界の頂点として、栄華を極めたのだった。このとき数え58歳。仏門を志してから45年の歳月が流れていた。
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