正法寺の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 15:50 UTC 版)
明応4年4月11日、妙純の弟斎藤利綱は村山利重らを率いて正法寺に入ったが、利光の弟石丸利元も間道から正法寺に移り、1つの寺で斎藤軍が北、石丸軍は南に対陣した。5月2日に利光は斎藤利藤の孫利春を船田城に迎え入れるが6月6日に利春は風邪で急死、急遽8日に利藤の末子毘沙童を、11日には土岐元頼を船田城に入城させた。気勢を上げた石丸軍は19日に利光の一族石丸利定が妙純方の安養寺を急襲、加納城を包囲したが、長井秀弘の反撃に遭い利定は戦死、死傷者500名を出して敗走した。斎藤軍は勝利に乗じて21日に正法寺へ入り、石丸利元は船田城へ逃れた。 22日に尾張の上四郡守護代織田寛広が妙純方として援軍を出し、安養寺近くに布陣した。7月1日に妙純は石丸方の西郡の古田氏討伐に弟の長井利安・利綱ら3000人の兵を派遣した。利光も一族の石丸利信を将とした1000人の救援軍を派遣、両軍は合戦に及んだ。この戦いで石丸軍は石丸利信を始め130余名が戦死、斎藤軍は56名であり、斎藤軍の勝利に終わった。 度重なる敗戦で船田城の利光は戦意を喪失、7日に船田城を焼き払い元頼と毘沙童ら500騎を連れて近江へ逃れた。9月に成頼も城田寺城に隠居して政房に家督と守護職を譲り、戦乱はいったん終結した。
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