土岐元頼とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 土岐元頼の意味・解説 

土岐元頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/13 15:27 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
土岐元頼
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 明応5年6月20日(1496年7月30日))
改名 基頼[1]→元頼
別名 長山四郎(通称
幕府 室町幕府
氏族 土岐氏
父母 父:土岐成頼
兄弟 土岐政房(頼継)、大畑定頼、
佐良木尚頼[1]元頼、萱津頼房、某(六角高頼の猶子)
頼連
テンプレートを表示

土岐 元頼(とき もとより、生年不詳 - 明応5年6月20日1496年7月30日))は、戦国時代武将美濃守護土岐成頼の四男。母は側室。通称は四郎。美濃長山城主。

生涯

宮本家古寺縁起には、明応(1492年 - 1501年)の頃、土岐美濃守政房の弟長山四郎は芥見村権現山の城主にして、大洞願成寺を修復せりとある[2]

父の成頼は、庶子である元頼を溺愛し、政房の廃嫡を考えるようになり、成頼によって元頼は守護代斎藤利藤小守護代石丸利光らに擁立され、兄の政房も斎藤妙純の支持を受けたことにより両者は対立、明応3年(1494年)に家督争いが起こった(船田合戦[3]

明応4年(1495年)6月、利光らと共に政房方と戦うが、敗れたため利光と共に近江へと逃れた。同年9月、父は隠居を余儀なくされ、家督と守護職を政房に譲る。しかし、その後も元頼は抵抗を続け、明応5年(1496年)5月に美濃に下国、隠居していた父の居城・城田寺城に籠城して再起を図るが、妙純の軍勢に包囲され、5月30日、利光は成頼らの助命を条件に切腹した。しかし、父は城田寺城から出たが元頼は許されず、止むなく自刃して果てた。

小里氏の祖である土岐頼連は元頼の子とされる[4]。また、明智光秀は元頼と武儀郡の豪族の中洞源左衛門の娘との子であり、大永6年(1526年)8月15日に生まれたという伝承が、山県郡美山の白山神社に伝わっている[5]

脚注

  1. ^ a b 列国譜
  2. ^ 『芥見郷土史』
  3. ^ 『船田記』
  4. ^ 『小里家譜』
  5. ^ 『稿本美濃誌』土岐琴川 1915年刊(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950886/65



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「土岐元頼」の関連用語

土岐元頼のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



土岐元頼のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの土岐元頼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS