土岐元頼の擁立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 03:48 UTC 版)
しかし、同じ家宰の西尾直教の讒言を受けた妙純から次第に疎んじられるようになると、主家の斎藤氏にとって代わることを考えるようになった。折しも、妙純に不満を抱いていた美濃守護・土岐成頼と美濃に帰還した利藤の誘いに応じて、成頼に与し利藤から許しを得て「斎藤丹波守利光」と名乗り、小守護代に補された。 明応3年(1494年)12月、計画していた妙純の暗殺を、西尾直教が妙純に報告したことを知り取りやめ、居城の美濃船田城に兵を集い、妙純の居城美濃加納城を攻める。成頼の意を受け、西尾直教を追放する形で一時的に妙純と和解したが、成頼から嫡男政房を廃嫡し、元頼を後継者にする助力を要請されたことで、政房を守護にと考えていた妙純と次第に対立していき、土岐氏の家督争いに発展した。
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