土岐世保家とは? わかりやすく解説

土岐世保家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 05:04 UTC 版)

土岐氏」の記事における「土岐世保家」の解説

明徳元年1390年)の土岐氏惣領は、土岐康行の乱起こす将軍義満追討受けて没落。 その当事者である康行は後に帰参許され応永7年1400年)に「伊勢半国守護」に再任された。しかし、主流美濃守護職は頼忠の家系西池田家)に奪われたために、康行の家系世保家と称して伊勢守護職を断続的に継承することになる。『看聞日記』には世保家が「土岐氏惣領」と記されており、世保家こそが本来の土岐氏嫡流見られていたようだ谷口研語法政大学兼任講師土岐氏一族多く世保に従っていたであろう述べている。 応永25年1418年)、世保3代当主の持頼は足利義嗣謀反加担したとして所領一部没収されている。この時に伊勢守護職を奪われたという説もある。さらに応永31年1424年)、持頼は上皇女官密通した咎められ幕府追討受けた。後に罪を赦され、正長元年1428年)に伊勢守護に復帰した。持頼は北畠満雅蜂起後南朝)の鎮圧成功している。ただ、伊勢国司北畠氏勢力強くその後もしばしば反乱起き世保家は統治苦労している。 永享12年1440年)、持頼は将軍独裁進め足利義教の命により大和出陣中に殺害された。伊勢半国守護一色氏に移る。 応仁の乱が起こると美濃土岐氏西軍属したに対して、持頼の子の政康は東軍属している。また、伊勢半国守護一色義直西軍であったことも政康が東軍属した理由である。政康は東軍によって伊勢半国守護任じられ伊勢支配巡って北畠教具戦っている。また、政康は東軍与した美濃の有力国人富島氏に協力して美濃土岐氏とも戦っていた形跡がある。 応仁の乱末期南北伊勢守護職は一色氏次いで北畠氏与えられた。戦国時代末期まで北畠氏伊勢守護となる。

※この「土岐世保家」の解説は、「土岐氏」の解説の一部です。
「土岐世保家」を含む「土岐氏」の記事については、「土岐氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「土岐世保家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「土岐世保家」の関連用語

土岐世保家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



土岐世保家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの土岐氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS